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​◎海峡を越えて(小説版)
外伝 狂飆の彼方
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序章

 

 秋の軟風が、色づいた木の葉を揺らしている。

一際強い風が吹き飛ばしてきた葉を払って、洞爺丸は顔を上げた。

 あの日から1年と少し。一周忌の合同法要は先月行われ、海難裁判の裁決も出された。

損傷状態の精密調査はとうに終わっている。あとは解体されるのを待つばかりの身だ。

分かっている。今更悔やんで、どうにかなるものではない。

それでも。

あの日の前の自分には、もう戻ることができない。

何も知らなかった、あの頃の自分には。

…目を覚まさない彼女も、ずっとこんなことを思っていたのだろうか。

最近、そればかりを考えている。

 

「洞爺、」

摩周丸の声がして、振り返った。

「あんまり海ばかりみているんじゃないよ。」

「連絡船が、海を見ないでどうしろというの?」

ちょっと笑ってみせる。相手は、気まずそうな顔で頭を掻いた。

「思いつめた顔してるからさ。いつでも、話は聞くから。声かけろよ。」

「大丈夫よ。」

第一、飛び込んだって死ねないのだ。船籍がまだ、残っているから。

さらに言うならば、自分に自ら死を選ぶ資格はないと思う。

「花を買って帰るわ。心配してくれてありがとう。」

事務所まで送っていく、という申し出を断って、歩き出した。日高丸は函館ドックに詰めている。

自分が見舞いに行かなければ。君は、相変わらず眠ったままだけれど。

 

落ちた葉が、渦巻く風に流されてくるくると舞っている。

もうすぐ、津軽海峡に冬がやって来る。

 

 

1.出会い

 その日は、ひどく風の強い日だった。自分の入る便が欠航し、急に手持無沙汰になった洞爺丸は、

さっさと寝てしまおうと自室の方へ向かっていた。

「……?」

廊下の突き当りの資料室の扉が小さく開いて、明かりが漏れている。誰かが消し忘れたのだろうか。

ため息を吐きながら、進んで扉を開き、手探りでスイッチを動かした。

奥から、小さく驚いたような声が聞こえた。

慌てて再びレバーに手を伸ばす。明るくなるまでの間が、無限のように感じられた。

「誰か、いるの?…ごめんなさい。」

声をかける。綴じられた書類や積み上げられた書籍の山の向こう側から、竜胆色の髪がチラチラと見えた。

…青函丸型や、宗谷丸たちの髪色ではない。

「誰…?ここは、部外者立ち入り禁止よ…?」

「部外者ではない。第六青函丸に許可は取っている。」

相手は、本を閉じて立ち上がった。

「貨物船の北見丸だ。浦賀を出発して今日の昼間に着いた。来週から就航予定だ。」

簡潔にそれだけ言うと、北見丸は再び本を開いて腰かけた。

「貨客船の洞爺丸です。分からないことがあれば、なんでも訊いてちょうだい?」

慌てて言う。とはいえ、自分も2ヵ月前に就航したばかりなのだが。

「新造船が全然入ってこなくて寂しかったの。羊蹄丸も大雪丸もまだ建造中だし。」

「新造船…か、」

呟いたときの横顔が、何故かひどく憂いを帯びていて。

ドキリとした。

「そうだな、確かに私は新造船だった。」

洞爺丸の方を見もせずに独り、言葉を紡ぐと、北見丸は本のページを繰り始めた。

「……これからよろしくお願いします、北見丸。」

その言葉は、届いたのかどうか。

サラサラと、紙が触れ合う音が続く部屋を、洞爺丸はため息を吐きながらあとにした。

 

(…本当に人付き合いが悪いひとね。)

資料室から漏れる光を見ながら、頬を膨らませた。北見丸にお茶の誘いを断られること早4回、

一体何をしているのかと見れば、部屋に籠って書籍を読み漁っているようで。

(そんなに気になることがあるのかしら?…全然分からないわ)

自分も勉強するために書架へ足を運ぶことはあるが、あそこまで重度ではない。なにしろ、

船着場へ行くギリギリまでいて、戻ってきたと思ったらもういる。聞くところによると、

どうやら青森側の資料室にも長時間滞在しているらしい。

…彼女のことと言えば、もう一つ、気になることがあった。新造船らしからぬ重い空気を周囲に纏わせていることだ。

昨年の9月に起工された「新品」の割には、戦争を潜り抜けた船たちのような、なんとも言えない重苦しい間合いが、

彼女にはあった。

(時間が経てば、慣れるものかしら…仲良くなれるといいのだけれど…)

期待と不安の混ざった感情を胸の中でこね回しながら、洞爺丸は当直の任務へと足を向けた。

 

 

2.拒絶

 

「放っておけば?」

第十一青函丸は書類の処理を待ちながら、のんびりと言った。

「私は北見丸と仲良くなりたいのだけれど…」

「うん。洞爺がそう思ってるのは分かるけど。迷惑ってこともあるじゃない?独りの時間が好きなのかもしれないし。

 どうしても調べたいことがあるのかもしれないし。」

目の前の机では、第六青函丸が気難しい顔をしながら書類に目を通しては丁寧に印を押している。

「私、迷惑だったのかしら…」

視線を落とした洞爺丸に、第十一青函丸は「貨物のひとたちにはまた違った悩みがあるのかもしれないからねえ」と付け加えた。

「俺じゃなくて壱岐丸や十勝丸に訊いたら?六郎、貨物の入るスジってどうなってたっけ?」

「一週間分の予定なら、そこの引き出しの中だ。」

「だってさ。書類はもういい?ありがとう。」

第十一青函丸は第六青函丸から書類を受け取ると、ひらひら手を振って出ていった。

「…おまえも決済印か?」

ぼんやりと立っていた洞爺丸は、慌てて紙束を机に載せた。第六青函丸はジロリとこちらを見渡したあと、書類を読み始めた。

「十一郎も言っていたが、北見丸のことなら放っておけ。」

「…え?」

思わぬ方向からの矢が刺さって、洞爺丸は目を瞬かせた。

「ひとの事情には深入りしないのが身のためだ。特に、北見丸はな。」

「北見丸は?」

最後の一言が、妙に引っ掛かって問い直した。第六青函丸は「しまった」という顔をして、露骨に目を逸らした。

…何か、知っているらしい。

「今の言葉は、忘れてくれ。」

「ええ、忘れるわ。口には出さないという意味だけれど。」

なんだか無性に腹が立って、洞爺丸は第六青函丸が印を押した書類の束を引っ掴むと、気持ち乱暴に扉を押し開けて部屋を出た。

 

勢いよく曲がり角を通り過ぎた洞爺丸は、フードを深く被った連絡船とぶつかった。

「おっと」

「ごめんなさい!…宗谷丸。」

「大丈夫だよ!僕は砕氷船だからね、頑丈だし。」

宗谷丸は、フードを下ろしながら明るく笑いかけた。

「洞爺は次の便?寒いから、気を付けてね。」

「…暖かそうですね。」

稚泊航路から転属してきた宗谷丸の外套には、毛皮が付いている。洞爺丸は心底羨ましそうにそれを眺めた。

「これラッコの毛皮なんだよね。触ってみる?」

 

「洞爺は、沈んだ船が戻ってくるっていう話、信じる?」

毛皮をいじらせながら、宗谷丸はなんでもないような調子で、軽く言った。

「…冗談でしょう?」

「そういうことがたまにあるらしい…んだよね。沈んだ船に限らないみたいだけど。」

ここだけの話、この航路にも何隻か戻ってきてるって噂があるよ、と彼は続けた。

「六郎は知ってるんじゃないかな。今度訊いてみよう。教えてくれない気がするけど…」

冗談めかした言葉の底に、彼らしくもない切望を読み取って、洞爺丸は困惑した。

「会いたいひとがいるんですか?」

「うーん…」

いつも明るい砕氷船の顔が、少しだけ曇った。

「亞庭に会えたらなって思うんだけど…稚泊航路はもう無いから、無理かな。」

宗谷丸はどこか諦めたような口調で、力なく笑った。

 

今日も今日とて、資料室からの明かりはずっと灯っている。そっと滑り込んで、様子を伺う。

北見丸はいつも通り一番隅の椅子に腰かけ、周りにうず高く本を積み上げて、こちらのことを見向きもしなかった。

…ある意味、態度が一貫している。

「北見丸…?」

何分か迷った挙句、洞爺丸は恐る恐る問いかけてみた。

「あの…私が話しかけるのって…迷惑だったかしら…?」

「…別に。迷惑ではない。」

北見丸は、顔を上げもせずに、紙を繰りながら言った。

「お茶の誘いも、自分の用事の方を優先しただけのことだ。君のことを格段に嫌っているわけではない。」

「…そう。」

少しホッとして、洞爺丸は傍に置いてあった脚立に腰を下ろした。埃の匂いが濃密に漂っている。

横目でそっと、北見丸の読んでいる資料を探ってみる。大文字の題名の上には影が落ちてよく分からないが、

その下の、「昭和20年■月」という文字だけが、微かに読み取れた。

「何を読んでいるの…?」

小声で訊いてみた。北見丸は、黙りこくってページをめくっていたが、しばらくして、

「鉄道省の運航成績表だ」

とだけ、答えを返してくれた。

鉄道省。昭和20年。先の大戦中の記録だ。いったい、彼女は何を求めているのだろうか。

ぶらぶらと、足を遊ばせる。部屋の片隅に、針の止まった時計が置いてあるのが見えた。

青函航路に就航してもうすぐ1年。北見丸が就航して半年。少しだけ、当たりが柔らかくなってきたようにも思う。

「ねえ、北見丸。あなたはこの航路に慣れてきた?私はずいぶん津軽海峡のことが分かってきたわ。

 もっともっと勉強して、お客さまや貨物をたくさん運びたいの。」

北見丸の手が止まった。

「あなたは貨物専門なのよね。すごいなあ。四線に貨車が止まっているってどんな感じ?

 私は線路の周りに配膳室や三等客室の設備があるのだけれど…」

「……た」

誰に言うともなく喋っていた洞爺丸は、急に言葉を遮られて目を丸くした。

「なんて?もう一度、話してくださる?」

「私はこの航路に就航などしたくなかった。」

強い語調に、身が竦む。

「なんで、そんなことを言うの…青函航路は本州―北海道連絡の基幹ルートじゃない…」

「花形路線であるかどうかは関係ない。ただ、私はそう思っている、それだけだ。」

北見丸は幾冊か本を取り上げると、固まった洞爺丸の横を通り過ぎた。

(何か、言わなければ。行ってしまう)

「この物資が少ない時に、ありったけを尽くして作られたのだもの…精一杯働かないと、罰が当たるわ?」

「自分の仕事は分かっている、それは全うする。」

北見丸は扉に手を掛けると、一度だけこちらを振り返って言った。

「君は何も知らない。そして君は何も知らなくていいんだ。」

 

 

3.日高丸

 

昼頃から降り出した雨は、日が沈んだあと本降りに、そして土砂振りに変わった。

洞爺丸は外套の袖から水を絞りながら、早足で連絡船控室へと急いでいた。早くストーブにあたりたい。

突然、廊下の奥にひとが現れたので、急停止した。連絡船は桟橋の中を自由に行き来できることになっている。

とはいえ、このような登場の仕方だとさすがに驚く。人間風に言うならば、「心臓に悪い」といったところだろうか。

現れたのは人懐っこそうな顔をした、青みがかった髪の青年だった。

…どことなく、外見は、書庫に籠りきりの誰かさんに、似ているような…

「初めまして。貨物船の日高丸です。北見丸の弟になるのかな、北見とはおおよそ半年違いの起工になります。

 浦賀から無事、こちらまで辿り着けて少しホッとしています。」

日高丸は、はきはきと喋って勝手に洞爺丸の手を取り、ぶんぶんと振り回した。

「これからよろしく?」

「…あなた、本当に北見丸の弟?」

どこか陰鬱な雰囲気の漂う北見丸とは正反対の性格に見える。

「浦賀船渠で建造された正真正銘の姉妹船ですよ。…まあ俺は弟だけど。どう?津輕ってば、随分と暗くなっちゃって、」

「津軽?」

「あれ。北見から聞かなかったの?俺と北見と摩周は二回目なんだよ。」

「…沈んだ船が戻ってきてるって、ほんとだったのね。」

戦後生まれの自分は資料でしか知らないが、あの戦争の末期に連絡船は空襲で全滅、青函の交通は分断状態に陥ったのだという。

辛うじて沈没を免れた第七・第八青函丸、擱座炎上から復帰した第六青函丸は当時の話を語ろうとしない。

「俺が元々松前。北見は津輕。摩周は四郎、第四青函丸ね。」

「…摩周丸は八月に就航したけれど、そんなことこれっぽっちも言わなかったわ。」

「そう。言わないかもね。」

一瞬、ほんの一瞬だけ、日高丸の瞳が真っ黒に翳った。

(ああ、このひともほんとは言いたくなかったんだわ。)

心に後悔のとげが刺さった。なんと言うべきか、とにかく口を開いたところで、背後から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。

「洞爺?そんなところで何をしているんだ?」

「第六青函…」

「よ、六郎。」

第六青函丸は目を見開いて、手に持っていた書類を全部落としてしまった。

「…ッ、おまえ…松前…?」

「なんか知らんが戻って来ました?」

日高丸はにっこり笑って、ちょっと首を傾げた。

「六郎、あのときはごめんね?」

第六青函丸は散らばった書類を拾い上げもせずに呆然と立っていたが、その言葉と共にボロボロと大粒の涙を浮かべて泣き始めた。

(…第六青函丸がこんなに感情を出すところなんて、初めて見たわ)

 

「ごめんね、俺のせいで余計な重荷を負わせちゃったよね?」

日高丸は歩み出ると、第六青函丸の背中を軽く叩いた。

「俺は…、ずっと…おまえを撃つべきではなかったんじゃないかと思って…」

「いやあれは仕方なかったと思う。」

青髪の貨物船は首を振った。

「沈みはしなかったけど、俺もおまえも大破していた。…ちょっとおまえの運がよかっただけだ。もしかしたら、

 俺がおまえを撃ってたかもしれない」

「だから、いいんだ。もう終わったことなんだよ。もういいんだ。」

それは、第六青函丸だけでなく、自分自身に言い聞かせるようでもあった。

なんとなく、その場に居ることが気まずくなって、洞爺丸はそっと立ち去った。

 

数日後。日高丸と自分だけが青森に入港しているタイミングを見計らって、洞爺丸は彼に声を掛けた。

「ねえ、日高丸。」

「…ん?洞爺、どうかした?」

外套の襟元を緩めながら、青年はこちらに人のよさそうな笑みを向けた。

「ちょっと風は強いけど、欠航するほどじゃないよ。注意すれば大丈夫。」

少しためらいながらも、思い切って、話題を切り出した。

「私たぶん、北見丸に嫌われてるのよ。」

日高丸は目を瞬かせた。

「どゆこと?」

「その…」

なんと言うべきか、言葉がうまく出てこない。中途半端な単語を並べているうちに、本当にこれでいいのか、分からなくなってきた。日高丸は大きな目でその様子を伺っていたが、難しい顔をすると、手招きして言った。

「少し、話そうか。」

 

「北見はね、甘いんだ。」

日高丸は壁にもたれかかると、髪の先を少し指でいじった。

「俺たちは戦中に何があったか覚えてる。…少なくとも、俺は全部覚えてる。

 津輕は乗員乗客を死なせてしまったと悔いているみたいだけど、俺は爆撃機に攻撃もしたよ…

 つまり、積極的に殺しもした、まあ、大抵の連絡船には警備隊が乗っていて、機銃で武装していたんだけどね。

 全く歯が立たない程度の装備だったけどさ」

口元に自嘲するような薄い笑みを浮かべて、彼は言葉を続けた。

「そういう時代だったんだ、なんて言葉で片付けるつもりはないよ。でも、俺たちはまだそれを消化できていない。

 特に、津輕はね。あいつは旅客を乗せていたから。元々、別の便に入る予定だったんだけど、

 そしてその便なら逃げ切れたと思うんだけど。かもしれない、かもしれない、なんて。今更の話なのに、ね」

「北見は言ってたな、『これはきっと罰なんだ』って。そう考えている以上、あいつはいつまでも救われないんだろうな。」

呆然と立ちすくむ洞爺丸を見やって、日高丸は

「悪いね、愉快でない話をしてしまってごめんね」

と言った。

「いえ…大丈夫…」

ようよう口から出てきたのはそんな言葉で。いったい、何が『大丈夫』なのだろうか。

彼はなだめるように笑うと、つうと体を起こして廊下の向こうへ歩いて行ってしまった。

(ああ、なんて。)

(なんて考えが浅かったのだろう、こんなにもハッキリと言われるまで気が付かないなんて。)

(それはそうだ、その通りだ、自分だってきっとそうする、だって私は)

(私はなにも知らない。)

ポタリ、と雫が床板に落ちた。

(この涙はいったい誰のための涙なんだろう。結局、自分のためではないのだろうか)

(いったい私は、彼女に対して何ができるというのだろうか)

自分勝手だと思いながらも、涙が止まらない。

函館では今日もまた、外界を拒絶して。溺れるように本を読んでいるのだろうか、北見丸は。

(ただ、一つだけ分かるのは、泣いて満足するだけではだめだということ。)

(わたしも彼女も、生きているのはいまなのだから…いまを、先を見ないといけない…はず、よね…)

目元を乱暴に拭うと、手袋をはめる。出港まであと1時間だ。そろそろ、桟橋へ行かなければ。

みんなに、特に彼女に、こんな姿は見せたくない。

「洞爺!時間だぞう!」

「いま行くわ!」

補助汽船に叫び返す。もう一度だけ、一度だけ、頭を振ると。洞爺丸は小走りで、進み始めた。

 

 

4.告解

 

 今年最後の満月が、煌々と辺りを照らしている。つい先ほどまで降り続いた雪が、

植木や塀や道路を覆って、白銀の世界を作り出していた。明日の朝の操車場では、まず一番に雪かきをせねばならないだろう。

 吐く息が窓を白く濁らせた。洞爺丸はしばらく、硝子を擦っては外を眺めていたが、

次第に指先が冷たくなってきたので、離れてカーテンを閉じた。

今日は全日欠航だ。午後いっぱいまで運航調整に躍起になっていた連絡船たちも、今は暫しの休息に耽っていた。

まとまった休み時間があるのは久し振りだ。経緯を鑑みると、全く喜ばしくはないはずだが、それでも休めるのはよいものだ。

風の様子を見る限り、明日の朝からは船を出せるように思える。自分の入る便は昼過ぎだ、今からならたっぷりと寝坊ができる。

 廊下を進みながら、洞爺丸は布団と温かい飲み物に思いをはせた。帰りがけに控室によって、湯でも沸かそう。

ほうじ茶がいいかな、それとも昆布茶でも飲もうかな…

……

…この角を曲がると、すぐ手前に資料室がある。

珍しいことに、北見丸が函館側にいることは分かっているのに、部屋には誰もいなかった。

古い紙の匂いが、主のいない書庫にたちこめている。

(まあ、たまには、本を読むより寝ていたいときだってあるわよね…)

少しホッとして、洞爺丸は次の角を曲がった。階段を過ぎれば、控室はすぐそこだ。

 

……誰かがいる。

階段の踊り場に、誰かが腰かけている。

北見丸だ。

 窓から差し込む月明かりの下、北見丸が俯いて頭を抱え込み、何事か呟いている。

「翔鳳、飛鸞、一郎、次郎、三郎…」

そっと通り過ぎようとした洞爺丸は、その名が耳に入って凍り付いた。

その名前たちは。

それは、空襲で沈んだ連絡船たちの名だ。

「…五郎、九郎、十郎、……なんで私が死に戻ってしまったんだろう?」

 

聞くつもりは、全くなかったのに。

悲痛な呟きは、まだ続いた。

 

「あんなに客を、乗組員を殺して。」

「松前は変わってしまった…私のせいだ、翔鳳(兄さん)や私のようにふるまう日高を見ていると、

 痛々しくて仕方ない。見ていられない。」

 

日高丸の危なっかしい笑顔が頭を過ぎる。

薄々感じてはいたが、どうもあれは本来の彼の性質ではないらしい。

 

「どうすればいい?私は…ぜんぶわたしのせいなんだ、それなのに」

「どうしておぼえていないんだ!!!」

 

階段を駆け上った。頭を掻きむしる彼女の腕を、掴んで止める。

大きな藤色の瞳が、こちらを向いた。

「……、………」

言葉が出てこないらしい。それは、…それは、きっとそのとおりだと思う。

「ごめんなさい」

「ぜんぶ、聞いてしまったわ」

再び沈黙が流れた。

月が天頂に昇りきってしまうくらいの長い長い静けさが、踊り場を包み込んで。

後になって考えればきっと、それはほんのわずかな時間だったと思うのだけれど。

北見丸は口を開いた。

「そうか、…全部知ってしまったのか。」

その声は、少し震えていた。

「過去に自分から縛られて、身動きもとれない…これが私なんだよ」

「さぞかし君は失望したことだろうな」

口を挟む間もなく、彼女は自らの傷を抉るが如く言葉を吐いた。

「こんなことは知らなくていい。君は知らなくていいはずだったんだ、

 何も知らずに、幸福に航行してくれさえすればよかった、なのに私が巻き込んでしまった…」

「ああ、すまない。本当に申し訳ない。ごめんなさい…」

ごめんなさい、ごめんなさいと糸が切れたように呟き続ける。

それがまた、必死に壁を作ろうとしているように見えて。

固まっていた、声が動いた。

「私は、なにも知らない方がよかったなんて、思ってない!!!」

届け。お願いだから、届いてくれ。この想いが、君の築こうとしている壁を突き抜けて、どうか、心に届くといい。

「なにも知らないでのんきに暮らして、あなたがただ辛いままなら、その方がずっとずっといやだわ、ものすごくいやだわ」

「ねえ。なんでも、私に言って。おねがい。私はあなたではないから、同じ痛みは分からないけれど…

 けど、あなたに楽になってほしいの。」

 

三度の沈黙。洞爺丸は踊り場に並んで腰を下ろすと、そっと、先ほどからずっと掴んでいた腕を放した。

そのまま、北見丸がなにか言葉にするのを待つ。

窓から見えていた月は、とうの昔に、高いところへ移ってしまっている。

 

「覚えていないんだ…」

ぽつり、と北見丸が呟いた。

「津輕丸は、昭和20年の7月14日に空襲で沈んだ。乗員乗客で生き残ったのは四分の一だ、それは確かだ、記録にあるのだから」

「なのに覚えていないんだ、記憶が所々抜けている…津輕丸は再浮揚されなかった、だからなのだと思うが…」

視線は宙を彷徨った。

「あんなに好きだったはずのみんなのことが思い出せない。罪悪感だけが募っていく…」

「記録を繰っているとたまに腑に落ちる記述がある…記憶を取り戻したような気になるんだ…」

ああ、そうか。

だから彼女は、あんなにも必死に資料を漁っていたのか。

「日高丸には…?日高丸に相談なんかは、したことがないの…?」

北見丸の顔色が、目に見えて変わった。

「言えるわけがあるか」

「あいつはなにもかも覚えている。知り過ぎているんだ、ギリギリのところで翔鳳(兄さん)と私の模倣をして、

 保っているように見える。…これ以上、私がなにか乗せていいような状況ではない。」

彼女はため息を吐いた。その横顔は、一人の弟を心配する姉だった。

「摩周丸は?」

「四郎は私と同じように、記憶に穴がある。…そういえば、君は今世の四郎の姉だったな。

 四郎が助けを求めてきたら、相談に乗ってやってほしい。」

「わかったわ」

頷いた。

「話を訊いてくれてありがとう。…もう夜も遅い。退散しようか。」

「そうね。」

北見丸は、顔の前で手を組むと、伺うようにこちらを見た。

「なに…?」

何か言いたげな彼女に、尋ねてみる。

「お茶の誘いは、まだ生きているか…?」

胸の奥で小さな灯がゆらゆら踊った。

「もちろんよ」

「次に函館で会うときはきっと、ね。約束よ。」

 

 

5.お召し船

 

「…私が、お召し船に?」

6月。開け放された窓から、初夏の風が吹き込んでいる。洞爺丸は、とても信じられないといった顔で第六青函丸の声を聞いた。

「そうだ。来年の国体の秋季大会は北海道で開催されるだろう?そこに両陛下が行幸されることになった。」

第六青函丸は、机に積み上げられた書類の山から何枚か紙を取り上げて、こちらに渡してきた。

宮内庁の内部資料らしく、表紙に大きく「極秘」と印が押されている。

受け取って、パラパラと繰ってみるものの、内容が全く頭に入ってこない。

「…航空機ではないのね?昨年から千歳飛行場には民間航空機が就航しているはずだけれど…

 函館から移動されるより、札幌に近い千歳に直接着いた方が楽ではないのかしら?」

「民間機が出入りしているとはいっても、千歳飛行場は未だ接収中だろ。それに、最近もく星号が墜落したばかりじゃないか。」

おまえが何と言おうが、これは決定事項だぞ、と第六青函丸は笑った。

「本当に、私でいいの…?」

「俺を含め青函丸型は元々貨物船として作られている。客室は後付けだ。

 最初から貨客船として設計されているおまえら洞爺丸型のがいいに決まってる。それに、おまえは洞爺丸型の第一船だ」

「おめでとう。警備、警戒の手はずは、年を越えてから本格的に詰め始めるだろう。我々も最大限後援する。」

「…返事は?」

「…はい!」

 

年が明け、雪の降り続く期間を抜けて、遅い北国の桜が咲いた。

洞爺丸は、整備に塗装に護衛艦たちとの打ち合わせに、ときりきり舞いになった。

忙しさの合間を縫っては、北見丸をお茶に誘った。北見丸は、相変わらず片手に本を携えてはいたが、

誘いには応じるようになっていた。

毎日、毎日が飛ぶように過ぎて行って、ついにその日が来た。

 

八月七日の正午過ぎ。青森駅構外の連絡船控室の中を、ぐるぐると歩き回る洞爺丸の姿があった。

額に汗を浮かべ、彼女らしくもなく、顔色は冴えない。

(巡視船たちと最後の打ち合わせはしたし、あとは桟橋へ行くだけ、なのだけれど…)

なんとなく、落ち着かない。やれることは全てやった。それは分かっているけれども。

(就航の日だってこんなに緊張しなかったわ…)

要は、お召し船と言う重大任務を前にアガっているのである。自分でも、それは分かる。

(これはマズい、何かやらかしそうな気がする…)

といっても、お茶を沸かして味わうほどの余裕はない。自然、足は書庫に向かっていた。

今日のこの時間、彼女は青森にいたはずだと思いながら。

 

予想通り、北見丸は書庫の奥で本に埋もれていた。窓に引かれた分厚いカーテンの隙間から、

わずかに夏の日が射しこんでいる。照らされて埃がチラチラと光った。

「…君か。」

ページをめくる手が止まった。

「お召し船の出発時刻は午後二時だったか。」

「覚えていたの?」

問いかけると、顔が僅かに上がった。

「…それは、まあ。日高が先導に入るということもあるし、」

竜胆色の瞳と視線が交差する。

「…飾緒が曲がっている。」

北見丸は手を伸ばして、位置を直した。

「ありがとう?よく飾緒の付け方なんて知ってるわね?」

「…翔鳳が、紀元節の際に付けていた。結局、兄はお召し船にはなれなかったが。」

顔を見る。微かな笑みに少しホッとする。

…きっとそれは、彼女にとって幸福な思い出なのだ。

「洞爺丸型は翔鳳丸型を基として設計されている。自分たちの脈を受け継いだ船がお召し船に選ばれたと知ったら、兄も喜ぶ。」

 

桟橋の方から急くような汽笛が聞こえてきた。

「そろそろ行くわ。」

戻ろうとした。と、そのとき、軽く手を掴まれた。驚いて、見返す。

…たぶん、彼女は笑っていた。

「胸を張れ。君は、青函連絡船で最初のお召し船なんだ。」

「…はい!」

「行ってこい。」

もう体に強張りはない。どこまでだって行ける。

書庫を出るときは振り返らなかった。それは望まれていない気がしたから。

目の前に、菊の紋の旗が翻った。

天候は快晴。南東の風、10 m。

お召し船洞爺丸は、漁船や汽船たちに見守られながら、ゆっくりと青森の港を出て行った。

 

 

6.あらし

 

「…本船500キロサイクルにてSOSよろしく…」

「「「洞爺丸」」」

風雨の叩きつける函館港で、嵐の過ぎるのをじっと待つ函館船渠で、横殴りの雨を耐え忍んでいる青森港で、

連絡船たちは息をのんだ。

「嘘でしょう、洞爺は七重浜に座礁したじゃないですか!」

羊蹄丸が叫ぶ。

「さっき触底したって打電があったばかりでしょう!」

「…十一郎とも連絡が取れないんだが、これは…」

第七青函丸が真っ青な顔で外の様子を伺う。

「いったい、何が起きているんだ…」

 

昭和29年、9月18日。カロリン諸島東部に発生した弱い熱帯低気圧は、南洋上で発達しながら西進し、

ルソン島東海上で北へ進路を変え、石垣島を通過、奄美諸島に届くころには非常に強い勢力を持ち、

さらにかなりの速度を持つようになっていた。

台風十五号、国際名:マリーと名付けられたこの台風には、2つの大きな特徴があった。

1つが、本邦上陸後も衰えず、発達しながら進み、北海道南西海上で再び発達したこと。

もう1つが、本邦通過時の移動速度が異常に大きく速かったことである。

のちの調査では、偏西風の波動や前線の活発化が影響して、強い風の流れが

日本海側に沿って形成されていたことが明らかになっている。

しかしながら、これは、なにもかもが起こってしまってから分かったことで。

9月26日朝の彼らは、これから待ち受ける悲劇など、知る由もなかった。

 

午前八時。函館海洋気象台から、風雨注意報が発令された。

「昼ごろから台風の影響で東の風が強くなるって?今、台風どこ…って瀬戸内海⁈えらい速い台風だな?」

大雪丸は、気象台の通告を見ながら、頭を掻いた。

「こりゃ、昼過ぎから全員テケミ(天候険悪による運航見合わせ)かもしれんねえ」

石狩丸が苦笑いした。

「今、洋上にいるのは…日高に北見に洞爺、八郎、十郎、羊蹄か。こいつらはきっと、着いた時点で打ち切りだなあ。」

 

十一時半。十一時過ぎに着岸し、折り返しの便の可否を考えている洞爺丸のもとに、気象台の暴風雨警報が届いた。

「そろそろ発令されるころだと思っていたわ。4便は運航できるかしら、」

「この台風は進みが速いから、見合わせしても夜には運航再開できるかも…しれないわ」

 

十二時四十分。渡島丸から、「難航中」の無線連絡が届いた。

「この時間の連絡なら渡島丸は海峡にちょうど出たあたりか、それで難航中なら俺は欠航した方がいいな」

第六青函丸は、通り過ぎたばかりの防波堤を見やると、どこに停泊できるだろうかと考えを巡らせ始めた。

 

「これは…戻るしかないね…」

1202便の第十一青函丸は、困ったような顔をした。

「困ったなあ…なんだって1202便に当たっちゃったんだろ。めんどくさいことになった。

 洞爺あたりが寝台車、荷物車と旅客を引き受けてくれるといいんだけど。」

 

十五時。

「旅客のほかは、積めないわ。そもそも私は四十分に出るはずだったのよ。

 台風が来るまでに陸奥湾に逃げ込めないなら、欠航しなきゃいけなくなるじゃない。」

洞爺丸は第十一青函丸と言い争っていた。

「もう出るわよ、私。」

ところが。

「停電⁈可動橋が?」

可動橋が停電し、船の出港作業が止まってしまった。

「…これじゃ、だめね。運航は見合わせよ。」

洞爺丸は悔しそうに、唇を噛んだ。

「洞爺…次の便で列車を運んでくれないか?」

第十一青函丸が、申し訳なさそうに提案した。

「函館か青森で落ち合ったときにこのお礼はするよ」

「…仕方ないわね。どうせ動けないなら、積もうが積ままいが同じね。いいわよ。」

「恩に着る。」

洞爺丸は第十一青函丸の積んでいた車両を搭載することになった。

 

十七時四十分。

風速十~十五メートル、突風二十メートルにもなる東の風が雨を叩きつけていた函館桟橋であったが、

十七時を回って急激に風が弱まり、上空には晴れ間が見え、台風の目に入ったかのような天候となった。

気象台からの情報でも、「今後は風が弱まる」との報告が出、これらを鑑みて、出港は十八時半とすることが、決まった。

 

「洞爺、」

青森に停泊中の羊蹄丸からの信号が入ったのは、十八時ごろだった。

「出るのですか?」

「そのつもりだけど。あなたは?」

「船長の判断で、出ないことにしました。どうにも天候がおかしいような気がして、」

羊蹄丸が眼鏡を外して、神経質に拭っている様子が目に浮かぶような打電だった。

「十分気を付けてくださいよ。風が強くなってきている。まずい状況になる前に停泊してくださいね」

 

洞爺丸が函館第一岸壁を離れたのは、十八時三十九分のことだった。

港外を目指し、西防波堤灯台を通過したところで、風波が予想以上に強いことが分かった。

『停泊してくださいね』

羊蹄丸の声が蘇る。

 

十九時過ぎ。洞爺丸は左右の錨を投じて停泊を決めた。

 

「洞爺、LST五四六号がSOSを出しているらしいんだけど。現場に行ける?」

函館から通信が入ったのは二〇時過ぎのことだった。

なんだか、調子が、おかしい。どこかしらから浸水しているような感覚がある。

「だめ。なんだか、調子がおかしいの…事故が起きているみたい」

「え?どこが?」

排水がうまくいかない。窓が割れて、三等客室に海水がなだれ込んでいる。

二十一時半過ぎになると、エンジンと発電機が止まりかけていることが分かった。

「洞爺、洞爺、そっちはどうなんだ」

「エンジンと発電機が止まりかけているのよ!」

「OK、海上保安庁に連絡してる。頑張って」

 

二十二時過ぎ。エンジンが止まった。

「救命胴衣、救命胴衣を着けてもらわなくちゃ…」

何かがおかしい。船体が傾いている。

錨が、動いている。

「洞爺!今どこにいる?」

「防波堤の青燈から二六七度八ケーブルのところよ…」

「座礁したわ」

直後、高い波が見えた。何かに引っ張られる感覚がして。

何も分からなくなった。

あらしのあと

 

 遠く意識を引き戻されるような感覚がして、洞爺丸は目を覚ました。全身が酷く痛い。

体を起こそうとすると、節々がギシギシときしんで、思わずうめき声が漏れた。

「無理するな、浮揚工事が終わったばかりなんだ。」

と、頬に大きな湿布を貼り付けた日高丸が、慌てて止めてきた。

「日高丸…」

「洞爺、七重浜で転覆したんだよ。覚えているか?」

七重浜。台風15号。客の、乗員の叫び声。傾斜が増していく甲板。錨鎖が千切れる音。冷たい秋の海。

狂ったように打電される救難信号。溢れかえる記憶に、眩暈を起こす。

「…たくさん、亡くなったの?」

声が震える。あれから何日が経っているのだろう。日高丸は質問には答えず、「今日は8月25日だ。」とだけ言った。

「洞爺丸が修復されるかはまだ決まっていない…船体の損傷が激しいから、期待しない方がいいかもしれない。」

「あなたは?」

「俺はちょっと運が良くて、修復工事中。」

俺は、という言葉が頭に引っ掛かった。

「ねえ、他の船はどうなったの?十勝丸や十一郎(第十一青函丸)は?」

「十一郎も浮揚は終わっているけれど、修復は無理だった。船体が3つに裂けたんだ、仕方ない。

 十勝丸はまだ浮揚作業中だけれど、来月には終わる見込み。こっちは、修復工事まで行きそうだ。」

「そう」

自分の指先を見る。ゆっくりと曲げ伸ばす。

「北見丸は?」

その答えを聞くのが、怖かった。

日高丸は一瞬視線を逸らして、何回か瞬きをした。

「…会うか?」

 

北見丸は、自室のベッドで昏々と眠っていた。月明かりに照らされて、顔が一際白く映った。

日高丸は、ベッドのわきの椅子を引いて、座り込んだ。

「沈んだ位置が悪かった。水深が52 mもあって、浮揚作業が難航している。」

「正直、俺は洞爺も目が覚めないんじゃないかと思っていたよ。」

血の気の引いた手を握ってみる。

氷のように冷たい手。

死人の手だ。

こんなことなら、…こんなことになる前に、言ってしまえばよかったのに。

「馬鹿ね、私。」

呟きは虚空に溶けて消えていった。

 

九月になっても、十月に入っても、北見丸は目を覚まさなかった。

「ねえ北見丸、私、明日売却されるの。解体されるのよ。」

薄暗い部屋の中で、いつものように花瓶の花を活け替えながら、洞爺丸は言った。

「結局あなたは眠ったまま。…まるで、眠り姫ね。」

答えはない。

「ねえ、北見丸。」

声が震えた。ぽたぽたと、熱い雫が両眼から落ちる。

「なんでこんなことになってしまったのかしら…事故の原因は、そうね。分かる限りは、分かっているけれど。

 そしてそれは、後世に活かされると思うけれど」

「でも、そういうことじゃないの。そういうことじゃないのよ。」

北見丸の上に涙が落ちないように、一歩退く。

「私はあなたともっと仲良くなりたかったのに…」

ああ。もう行く時間だ。

洞爺丸は乱暴に顔を拭うと、冷たい北見丸の手をさっと握った。

「さよならは言わないわ、きっとまた会えるもの。…いいえ、会うわ。今度こそ笑って、あなたに会いに行くわ。」

 

「久し振り。洞爺、十一郎、…北見。」

日高丸は殉難碑の前に花を供えると、マッチを擦って線香に火を点けた。

「六郎も七郎も八郎もいなくなっちゃった。摩周は三回目に突入してから来ているのかな?

 …俺はこんなに二回目が長いなんて、思ってもみなかった。」

懐から煙草を取り出して、線香の先端に押し付ける。しばらくすると、紫煙が細く立ち昇った。

「来年には海峡の連絡隧道の本工事が始まるってさ。…そのうち、連絡船もなくなるかもしれない。」

あれから16年。…いや、遡れば25年。船にとっては長すぎる年月が経ってしまった。

いつの日か、空襲の記憶も事故の記憶も霧の向こう側に溶けていって、書物の片隅に記述された文字の羅列に変わるのだろう。

この胸に刻み込まれた傷も、自分と共に消えて。

全てが至る所に行き着くだけ。

煙草の火が消えても、彼は碑の前にずっと佇んでいた。

 

頬に冷たいものが触れて、天を見上げた。チラチラと雪花が舞っている。

「おまえは雪が好きだったな、北見。」

静かに優しく、白い衣が殉難碑に被さっていく。

日高丸は碑に埋め込まれた北見丸の外板に触れると、肩に積もった雪を払って立ち上がった。

「…おやすみ。」

海に目をやると、ちょうど八甲田丸が函館港を出たところだった。

黄色に塗り分けられた船は、颯爽と波を切って青森へ進んでいく。

かつての仲間がそうだったように。ずっと自分がそうしてきたように。

(どうか、ご安航を。)

祈るように航跡を目で追う。

白い線は、真っ直ぐ沖を目掛けて伸びていった。

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