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​◎海峡を越えて(小説版)
外伝3 梅枝
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 からだが裏返るような衝撃と共に轟音が鳴り響いて、急に目の前が明るくなった。最初は真っ白で何も見えなかった視界は、時間と共に少しずつ落ち着いて、徐々にものの輪郭が分かるようになった。同時に、周りの音や匂いも感じ始めて、ようよう「自分がどこにいるか」理解した。

鉄と油と煤と、強い潮の香りと、遠くから聞こえる鋲打ちの振動と。

ここは造船所だ。

「お?ちびっこ、おまえは貨物船か」

近寄ってきたのはたぶん漁船だ。

(……ちびっこ?)

手を上げる。見覚えのない小さな指が、ひらひらと動いた。

「貨物船……」

「そう。貨物船。おまえ、ずいぶん珍しい型だな」

漁船の青年は、興味深そうに視線を上下させた。

「ここらじゃ見ない。船尾から汽車を積むなんて……」

急に目の奥がチカチカと点滅して。先ほどまでバラバラに漂っていた「記憶」が。

「前」の自分の記憶が、一気に接続されていくのが分かった。

「───ッ……」

「おいおい、顔色が悪いぞ。大丈夫か?自分がどこに行く船か言えるか?」

相手は純粋に心配してくれているのだろう。

「函館。函館だよ、」

思い出した。自分は。

「俺は……青函連絡船だ」

 

 ***

 

 数日経った。

先に起工した船や、修繕で船渠入りしている者たちに色々と教えてもらって、知識はずいぶんと増えた。この造船所が東京湾に面する浦賀船渠であることも、自分がつい先日、起工したばかりの建造中の船であることも、……そして、終戦は1年半以上も前であることも。

 「前」の自分の最後の記憶は8月15日で終わっている。……彼の腕は確かに、「よかった」のに違いない。戻ってきてしまった結果、一体全体、どんな顔をして会えばいいのか分からないが。

(今世の自分は「日高丸」という船に……また、青函連絡船になるらしい)

はるか昔、まだ自分が何も知らなくて……そう、長崎の造船所で姉に幸福に振り回されていたころ……少しだけ噂を聞いたことがあった。

曰く。

ふねは、己の役目が終わったときにこの世から居なくなるが。

稀に、ごくごく稀に、戻ってくるふねがいるのだと。

ふねは鉄から生まれ、鉄の屑に還っていくものだが、外れてしまうものがいる……と。

(だとすれば俺はこの先、どうなるんだ?)

記憶を手繰ってもそれより詳しい話は出てこない。どうやら、前の自分はさほど身を入れて聞いていなかったらしい。

(“外れてしまう”と言うからには、普通のふねの道理に戻ることもあるのか?……それとも、何度も何度も「俺」のままで繰り返すんだろうか……)

そもそも、なぜ「外れた」のかが分からない。手近にそれらしいふねは見当たらないから、訊いて状況を掛け合わせることもできない。広大なドックのこと、隅々まで巡ればいるのかもしれないが、本当に、他に「戻ってきた」ふねなんて……

 

「津輕!」

それは、視界の隅をすい、と通過していったのだけれど。

一瞥だけでなぜか、それは彼女なのだと分かっていた。

「待ってくれ!」

全力で追いかける。ああ、なぜ自分の体はこんなに小さくなってしまったのだろう。

ゆらゆらと歩く影を追いかけて、追いついて、回り込んで、やっとのことで手を掴んだ。

 

そのふねは、つま先から頭のてっぺんまで、かつての自分、松前丸の姉……津輕丸、そのものだった。

 

信じられない。嘘だろう。よくできたおはなしに決まっている。

「津輕!俺だよ松前だよ、……今は日高丸だけど……」

話したいことがたくさんあるのに、言葉が詰まって出てこない。急に得体の知れない不安感が足から這い上ってきて、日高丸は恐る恐る、相手の顔を見上げた。

「……一体、何の話をしているんだ?」

困りきった、という表情で、口から零れる言葉に凍り付く。

「つがる……?」

「私の名前は北見丸だが……」

怪訝そうな顔で彼女は首を傾げた。癖っ毛がひらり、早春の風に揺れた。

「別の船と間違えているんじゃないのか?……おや、もしかしておまえは私の同型船かな?建造中の連絡船に“つがる”は居たかな……」

「津輕……」

「だから、私はつがるではな……」

言葉が途切れた。

見上げると、靄がかった藤色の瞳が暗く、黒々と澱んでいくのが分かった。

「……まつまえ……?」

囁くように呟いたかと思うと。北見丸は頭を抱えて倒れ込んでしまった。

 

「珍しいこともあるもんだねえ」

小柄な曳船の声が、薄暗い部屋に響いた。

夕暮れ時になっていた。北見丸は自室に運び込まれ、寝台で眠っていた。日高丸から事情を聞き出した周囲のふねたちが、年季の入った浦賀の曳船を呼び出したのだった。

「きょうだいで死に戻りか、廻り合わせがいいんだか悪いんだか」

話振りから判断するに、このふねはなかなか事情通であるらしい。

「その……これは、よくあることなんでしょうか……」

「沢山は無いかな。アタシも数えられるくらいしか見ていない。きょうだいぶねが揃って戻るのは初めてだ、ここ最近は増えたとはいえ」

曳船は目を眇めると、「沈むふねが増えると、外れるふねも増えるんだよ」と言った。

「どのふねもこのふねも、戻ってくるのは何かあったヤツばかりさ。真っ当に走り切ったふねはそのまま進んで行っちまうけど、後悔ばかりのふねは引っ掛かって逸れてしまうんだねえ……」

ここは造船所の町だから、ふねが生まれては鉄に還り、また生まれる場所だから。

アタシは色々見てきたよ、と。

沈み際の西日が仄かに差し込んでくる中で、彼女はそう言った。

 

(後悔ばかり、か……)

曳船が去ったあとの部屋で、日高丸は姉船の顔を眺めながら吐息をこぼした。

「おまえはいつだって真っすぐ走っていってしまうものだと思っていたのに……」

姉の後悔は何だったのだろう。ずっと焦がれて憧れて、どれだけもがいても心底叶わぬ相手だと思っていた。自分が先に立って歩くことなどないと、少しだけ脇道に逸れたとしても、いつの間にかまた前で、楽しそうに笑っているものだと……そういうふねなのだと、信じていた。

だって。津輕はいつだって。自由気ままな足取りで歩いていたから……。

「……つまえ、松前、……いや、日高丸?か……?」

視線を戻すと、北見丸が目をこすりながら、からだを起こしてくるところだった。

「……俺もよく分からんから、どっちでもいいよ」

「そうか。おまえは全部覚えているのか?」

全部。とは。

「たぶん。俺は『俺』のことは、大体思い出せるけど……」

「……私は、……私のことが分からない……」

声が震えた。頭を押さえる手もガクガクと揺れていた。

「私は確かに、青函連絡船の『津輕丸』だった……それは分かっている」

「ざっくりとした記憶もある。長崎でおまえ……『松前丸』と出会ったこと、函館へ迎えられたこと、海峡のこと、兄さんたちのこと、……最後の記憶は……夏で、」

夏。7月14日。青函連絡船の多くが沈められた日に、津輕丸も沈んだ。

「あの日に私は沈んだ、」と彼女は言った。真っ青な顔で、ひどく掠れた声で、そう……言った。

それがあまりにも記憶の中の「津輕丸」と異なる様で、なのに目の前にいるのは確かに「津輕丸」……いや、誰なのだろう。これは誰なのだろう。今世の船としては「北見丸」なのだろうけれど……。

記憶が跳ねて、躍って、目の前の彼女と重なってはズレ込んで、ぐらぐらとくらくらと、視界が歪んだ。縋るように手を掴んだ。ひどく冷たい手だった。

「……記憶があるのなら、何が問題なんだ」

“私のことが分からない”とは、一体どういうことなのだろう。

「そう、記憶はある……でも、なにもかもじゃない」

「私が『津輕丸』であったことは大体分かるけれど……そこから先は、いつ何をしていたのか、何が楽しかったのか、苦しかったのか、ほとんど分からない。思い出そうとしても、掴みどころが全くない」

「だから、私は自分が『誰』なのかが分からないよ……」

やめてくれ。これ以上俺の覚えている「津輕」の姿で、その顔で、その口で、溺れる者のようなことを言わないでくれ。

だってそうだろう。

津輕は、俺の津輕は、そんなふねじゃなかっただろう。

気が付いた時には手を放してしまっていた。右手を見て、左手を見て、顔を上げて、「ああしまった」と思った。

「……きっと、おまえの中の『私』はこんなふねではなかったのだろうな」

北見丸は怒らなかった。ただ寂しそうにそれだけを呟いた。

(『違うんだ』なんて、言えるわけがない)

(だって俺は『違う』って思ってしまったから)

(『戻ってくれ』と願ってしまったから……)

「少し、外の空気を吸ってくる」

部屋を出ると、どうにもたまらなくなって駆け出した。広い浦賀のドックの中を、ただただ走った。他のふねにぶつかりそうになって、ギュッと避けて、走って走って……立ち止まるとあたまの中のぐちゃぐちゃに追いつかれる気がして、とにかく足を動かした。

 

 とはいえ所詮、起工したてのふねの足、そんなに長く動いていられるわけでもなく、ぷつん、と燃料が切れたように止まってしまった。日高丸は工場の壁に背を付けて、ずるずると沈み込んだ。辺りはもう暗くなっていて、細い月が西の空に掛かっている。

「……足、速かったんだよな、俺……」

翔鳳丸型の四隻きょうだいの中では一番速かったのだ。姉……「津輕丸」よりも速くて。それが小さな誇りだったりして。ちょっと口論になりかけたこともあったけれど。

そんなことも全部。彼女は思い出せないでいるのだろうか。

一体、これからどんな顔をして会えばいいのだろう。もしかすると、自分が声を掛けなければ。「津輕」と呼ばなければ、「北見丸」は「北見丸」のまま、幸福にいられたのかもしれないのに……。

(そもそも、俺はどうなってほしいんだ)

(普通のふねの理を外れてまでも、姉と共に在れる、それは幸せそのものではないのか)

(これ以上の何を望んでいるんだ)

頭を抱えてみても、時間が過ぎるだけ。月が低くなっていくだけ。

とうとう星ばかりが見えるようになった空を見上げる。鼻がツンと痛くなった。

日高丸は、その夜はずっと、星が動いていくのを見つめていた。

 

 ***

 

 また少し日が経って、日高丸は汽船としての教育を受けることになった。「前」のときもそうだったが、ふねは起工からしばらくすると、走るために必要な事柄を詰めこまれるようになる。一度同じようなことをやったとはいえ、前回は四半世紀以上前のこと。技術の発展は日進月歩だなと思いつつ、日高丸はせっせと帳面に書き付けを取った。

(前は津輕が隣にいたんだけどな……)

半年ほど先に起工した北見丸は、うんと先の課程を受けている。進水式は来月だ。

あれから、北見丸と日高丸の関係は杳として進まなかった。双方別々に勉強をしているということもあるし、部屋が近くに無いということも影響していた。会って話をする機会が少ないのだ。「前」……長崎でやはり、色々と学んでいた際は、きょうだいぶねで起工も同日であったことから、これ幸いと同じ部屋にまとめられていたが、最近はそういうことはなかなかないらしかった。

(進水式が過ぎれば少し余裕ができるだろうか……どうだろう)

ようやく午前の部が終わった日高丸は、草の生えはじめた空き地で寝転がりながら、帳面をパラパラと見返していた。この空き地は最近見付けたもので、少し奥まった場所にあるせいか、通行するふねも少なく、存外のんびりと過ごせるのだった。

 ふと、懐かしい気配がして視線を上げると、自分より少し年上と見られる若いふねが、立ち止まってこちらを注視していた。両側に跳ねた癖っ毛は、どこか見覚えがあるような……。

「おやおや」

相手は目を丸くすると、足早に近づいてきた。

「あちらの海の匂いがすると思ったら、そういうことか」

「……四郎」

「ん。確かに俺は『第四青函丸』だったけど。今は『摩周丸』」

薄青い髪を風にそよがせながら、摩周丸はそっと横に腰を下ろした。

「客貨船『洞爺丸型』の第三船で、他の船は神戸で建造中。一番上の姉貴がそのうち進水するらしいぜ」

それは戻ってきた船にしては、随分とあっさりした態度のように思えた。

そう。

自分や……姉と比べると。

「……おまえは……」

黙り込んでしまった日高丸を見つめると、摩周丸はゆっくりと体を倒して仰向けに寝転んだ。視線を追うと、白く霞が掛かったような、春の空が見えた。

ふたりはしばらく、何も言わずに動いていく雲を眺めていた。

「……日高はさ、俺のこと、薄情だと思う?」

摩周丸が呟いた。かつてのものではなく、今の名前で自分を呼んだ。

「分からん。……俺とは何か違う感じはした」

思ったままの言葉を告げると、相手は少しだけ……笑ったようだった。

「俺さ、2年半くらいしか走ってなかったんだよ。起工から数えても大体4年。それで、終わったの」

沈んだのだ。あの空襲で。

「俺は平時仕様の船だったけど……働き始めたときにはもう平時なんかじゃなくて、だから俺は元からそれを知らない。最初から俺の中にそれは無いんだ」

「……それが悔しいとか、恨めしいとかは無いのか……?」

訊いてみた。彼は目をつむると、全く無いわけではないけれど、と言った。

「あの海のために造られたふねだったからね」

たぶんそれは、何もかもを飲み込んで出てきた言葉なのだろう。

「思い出せないことは沢山あって、そいつは俺を悩ませてる。でもさ」

「俺、今は『摩周丸』だからさ。『摩周丸』として、走らないと」

ふねの道理からは逸れてしまったみたいだけれど。俺は今あるふねとして過ごすつもりだよ……と。摩周丸は付け加えた。決して一朝一夕でまとまったものではないのだろうが、その顔は日高丸には随分と眩しいように思えるのだった。

 

 ***

 

 その日は、五月にしては随分と寒く、今にも雨が降り出しそうな空模様だった。日高丸は講義を休み、北見丸の進水式を見ようと造船所の裏山に登っていた。

「……きょうだいぶねなんだから、もっと近くにいてもよかったんじゃないのか」

呆れ顔で摩周丸が言った。こちらも同僚の進水式にかこつけて座学を抜け出してきたのだった。

「船台の傍に居ても問題なかったろうに」

「……気まずい」

日高丸は近くの松の木を見上げながら、気もそぞろ、といった調子で答えた。

「喧嘩でもしたのか。……おまえまさか、その木に登るつもりじゃないだろうな?」

摩周丸の問いには返事をせず、ヒョイと飛び上がったかと思うと、彼はもう力枝の上に腰かけていた。

「無茶するなあ……」

摩周丸も続いて登ってきた。

浦賀船渠の本工場船台では、式が粛々と進んでいる様子だった。

「皐月晴れとはいかなかったが、あちらの海のことを思えば『らしい』天気なんじゃないかね」

「そうだな」

全くこちらに注意を向けない日高丸に業を煮やして、摩周丸は彼を枝から突き落とした。

「何するんだ」

「おうおうおう、やっと気が付いたかボケぶねが」

青白い髪を逆立てて、客貨船は彼を見下ろした。

「おまえさ、船台に行った方がいいよ」

「でも」

あからさまに視線を逸らす日高丸の様に、摩周丸は溜息を洩らした。

「何があったか俺には分からん。でも、ここでうだうだして後悔するよりは、北見に何か言ってやった方が万倍いいんでねえか」

「俺たちは後悔ばかりの船だ、堕ちて堕ちてここにいる」

「けどよ。これ以上、後悔を重ねるな」

それは懇願のようでもあり、摩周丸の……「第四青函丸」の叫びのようでもあった。

「分かった」

ぽつりとそれだけ言って。

日高丸はふらりと立ち上がると、姿を消した。

 

 船台の周りには関係者や見物人の小さい山ができていて、背丈の伸びきっていない日高丸はつま先立ちをしたり、体を屈めてすり抜けたりして、北見丸を探した。

 彼女は人だかりから少し離れた場所で、静かに式典の様子を見物していた。ひょろりとした立ち姿にはどことなく、最後に話した時と同じような寂しさが漂っているように思えた。

「……北見、」

迷いながらも声を掛けると、藤色の瞳がこちらを認めて、ちょっと驚いたように瞬いた。

(どうしよう。勢いで声を掛けてしまった)

あたまの中は真っ白で、次は何をすべきか候補も出てこない有様だ。

「……おいで」

気が付いた時には手を取られて、人の合間を縫って進んでいた。

「もう少し、いいところに行こう」

それは津輕のように、勢いよく振り回してくる手ではなかったけれど。いつも激しく情熱に満ち満ちたものではなかったけれど。それでも……。

少し突き出た工場の先で、北見丸は立ち止まった。

「ああよかった。間に合った。綱が切れる」

わあっという歓声と共に、船は勢いよく水面に踊り出していった。

「おまえと見れたらよかったと思っていたんだ」

彼女はそう言って、口の端に小さく笑みを浮かべた。

「……俺もそう思ってたよ」

「そうか、それはよかった」

皮肉でもなんでもなく、純粋にほっとした、という顔だった。北見丸の口が僅かばかり軽くなった。

「あれから色々、……考えたんだが」

繋いだ手に緊張が走るのが分かった。

「私はあちらで……函館で、『津輕丸』の軌跡を探そうと思う」

「『津輕』は青函航路のふねだった。だから、向こうにはきっと、何か記録が残っているだろう」

ふいに分かってしまった。

彼女は「津輕丸」ではないのだ。「津輕」の姿が重なるけれど、そのものではないのだ。北見丸が「津輕丸」の情報を得たところで、それは「北見丸から見た津輕丸」でしかない。そして、北見丸も自分が津輕丸になれるとは思っていないのだろう。

(……津輕、おまえはこのままいなくなってしまうのか?)

(俺が忘れてしまえば、津輕は消えてしまう……どうしたらいい。何をすればいいんだ)

「日高、ひどい顔だ。具合でも悪いのか」

姉船は焦ったのか、あたふたと辺りを見回した。

「……大丈夫だよ。俺は大丈夫。……少し、疲れただけだから」

そう。相手が希望を見出しているところに、水を差す訳にはいかないだろう。思い悩むのは自分だけでいい。自分だけでいいのだ。

ふたり、手を繋いで歩いていく。けれど、視線の方向はバラバラで。

それでも。今度こそは手を離すまいと、日高丸は強く願った。

 

 ***

 

「進水まで1年以上も掛かるんだな」

「普通の船ならこんなもんじゃねーの?」

造船所の予定表を見ながら、日高丸と摩周丸は何とも言えない雑談をしていた。摩周丸は進水式を終え、スラリとした上背となっていた。日高丸の進水はもう少し先だ。

「戦時標準船と比較したって仕方ねえべ。どの船から先に出すかっつー事情もあるだろうし」

彼はニヤリと笑うと、日高丸の肩にぽん、と手を置いた。

「分かった。北見がもうすぐ竣工だから焦ってるんだな」

言い当てられてむくれた顔のこぶねがポカポカと殴り掛かってくるのを避けて、摩周丸は懐から2枚の紙片を取り出した。

「なんだそれは」

「浦賀から湘南田浦までの東急の切符だよ。梅林で花見でもしてこい」

北見にはもう声を掛けたから、昼には出てくるはずだぞ、早くしないと日が暮れちまうぞ、と言いながら客貨船は楽しそうに切符を渡してきた。

「貸し一つ、な」

「……そのうち返すよ」

「期待してるぜ」

ニコニコと手を振りながら、摩周丸は歩いて行ってしまった。

 

「ちょうど咲き始めたところかな」

北見丸は梅の枝を仰ぎ見て言った。緑地には紅梅、白梅、それぞれ数百本になろうか、という木々が並んでいる。全体としては五分咲きといったところだが、気の早い花は甘い香りを辺りに振りまいていた。

「最近は暖かかったからな……見頃はもう少し先だろうが」

「もう引き渡しの人員が入ってきているから、その頃には私は函館だろう」

ここ数日、彼女は試験航海で忙しくしていた。はるばる函館から回航担当の船員たちがやって来て、作業は急速に進められていた。浦賀を経つのも秒読みだった。

卸したてのピンとした制服に身を包み、今日は帽子もキッチリ被って、北見丸は一人前のふね、といった様子だった。

「北見……」

「どうした?」

「……なんでもない」

なんだか今日は一段と、「津輕」の姿がブレて見えるように思える。それが嬉しくて、胸が苦しくて、喉元まで言葉が出そうになって飲み込んで、を繰り返している。

ごう、と風が吹いて髪を巻き上げた。梅の花々の向こうに、確かに津輕丸の影を見た気がして、日高丸は手を伸ばした。

「綺麗だな」

彼女は薄く笑いながら振り返った。

「……綺麗だ、ああ綺麗だよ」

なんて掴みどころのない幻影なのだろう。捕まえたと思っては消え、指の間をすり抜けて逃げて行ってしまう。

ああ、君はもういないんだ。

だとしても、この幻が目に留まっているうちにせめて、この身に焼き付けて。

俺だけは覚えていたい。姉の姿を、「津輕丸」のことを。兄たちのことを、あの時代の海のことを。

拳を固く握りしめた日高丸の背後を、早春の風が渡っていった。

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