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​◎黄昏に、朱
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 古くからの都であるこの街の中心駅はいつだって人であふれているが、夕刻のこの時間を過ぎると一際往来が増える。暗い色の背広に身を包んだ会社員たち、色とりどりの衣装をまとった観光客たち、賑やかに通り過ぎていく学生たち、大階段から耳を澄ますとそれらの音が重なって、すこしずれて、また重なって、いつまでも聞き飽きることがない。日が傾くにつれ広がっていく薄暗がりも、少し間をおいて点る灯りも、またこのひとときを引き立てている。

 トワイライトエクスプレスは息を吐くと、ぽかりと開いた天井越しに空を見上げた。昨日も今日も、予報によれば明日もいい天気だそうだ。ソメイヨシノやヤマザクラは散ってしまっただろうが、八重のサクラがそこかしこを彩ることだろう。

(九州はどうなんやろう…やっぱサクラが散るんも早いんやろか。博多の近くには大濠公園っちゅう名所があるて聞いたけどな)

 天色から薄群青へ、さらに青藍へ。彩度を落としていく空をのんびり眺めていると、携帯電話が鳴った。

「ぼん、おまえどこにいるんだ」

「京都駅の大階段。81サンも来はる?」

電話越しにも相手がため息を吐くのがわかった。

「敦賀から大阪まで出てきたとこだっつーに、京都まで俺を呼び返す気かよ。どうせおまえは網干に戻るんだから、ついでに大阪に寄れ。明日の朝まで俺は居るぞ。」

「問題でも?」

「7月以降の運行日とルートが決まった。いいから早く戻ってこい。」

「いつも通りの山陽ルートやろ?」

何をそう急くことがあるのか。問いただすとEF81は笑ったようだった。

「それが違うんだよ、」

「…山陰ルートなん?」

「山陰でもない。」

いいから早く戻ってこい、と彼はもう一度、楽しそうに言った。

「おまえの行先は大分だよ。九州乗り入れだ。」

 

1989年、春。

「まだ札幌駅着かへんの…」

「千歳線に入ってるんだからすぐだ、すぐ。」

DD51の素っ気ない返答を聞いて、トワイライトエクスプレスはしっかりと首元に巻き付けたマフラーに顔を埋めた。

「やっぱ北海道は寒いなあ…」

「道北だと冷えるときゃ氷点下30度を下回るからな。普通に今日はあったかいよ。」

「あったかい…?これで…?」

信じられないものを見るような顔でDD51を見上げても、相手は面白そうな目線で返してくるだけ。

(こんひとの話は冗談なんか冗談じゃないんかようわからんわ…)

「ほれほれ、もうすぐ函館本線との並走区間だぞ。札幌貨物ターミナルをご覧あれ。」

窓越しにも朱い機関車が並んでいるのが分かった。

「アレ…?51サンやない機関車もいはる?」

「へえ、目がいいんだな」

DD51は感心したように眼鏡をクイと上げた。

「あれは電気機関車だよ。小樽から旭川までは電化されてるから、その間を走ってるんだ。」

「ふうん…」

「津軽海峡線はED79の担当だったろ。あれの姉貴だよ。ED76だ。」

貨物駅の端に、人影が見えた。

「おまえ運がいいな。あいつ、岩見沢所属だからここに長時間はいないんだよ。」

DD51が軽く警笛を鳴らすと、朱い外套の女性が勢いよく振り返った。

服より鮮やかな紅の髪が、ひらりと舞った。同色の瞳が鋭い視線で突き刺してきた。

『試験走行か?DD51』

低めの声が聞こえてきた。

「そ。この夏から走る大阪のぼん。日本海の弟。」

『そうか。よろしくな。私はここにはもう長くは居ないと思うけどさ』

窓から身を乗り出すと、遠くで彼女が手を挙げるのが見えた。

「もう長くは居ないって…?」

「客車列車が減ったし、貨物もディーゼルを直通させる方針に変わったからなあ。ここのはちょいと改造して青函に移るってはなしだ。九州機はしばらく…は安泰みたいだけど。」

なら、また会えるのか。

少し安心して…すぐになぜ自分は安心したのだろう、と思った。

(まだ、ただの他人やないか…)

(まだ?)

(なんでボクは「まだ」なんて思うた?)

「…青春だねえ」

隣のDD51に頬をつつかれて、トワイライトエクスプレスは焦点を戻した。

「おまえ、すぐ顔に出るのな。わかりやすい」

カッと頬が熱くなるのが分かった。

「電機はどいつもこいつも一癖ある上におかたい連中だからな…がんばれよ…」

「………」

「いやあ、ぼんを見ていると愉快だなあ」

DD51は満面の笑みを浮かべた。そういえばこの機関車は五稜郭から自分を引っ張ってきたのだった。というか、今後も五稜郭から牽引されるわけで、色々いじくり倒されるのに違いなかった。せめてもの抗議に横腹を肘で思いっきり突いてやったが、大柄なディーゼル機関車はびくともせず、にこにこと笑っているだけだった。

「遠目で応援してるから」

「51サンがこんないじわるなんて知らんかった…」

「俺は意地悪じゃないよ?面白がってるだけ。」

横目で睨む。

「まあ、なんかあれば話くらいは聞いてやるからさ。…もう札幌だぞ。」

ちらちらと、窓の外を青いホーロー引きの看板が横切った。列車は緩やかに札幌駅の3番線へ滑り込んでいった。

 

闇夜に空気を切り裂くような警笛が聞こえた。交流機関車の音だ。

トワイライトエクスプレスはベッドから飛び起きてカーテンを開けると、窓ガラスに顔を押し付けた。本線を朱い電気機関車が颯爽と駆け抜けていった。

(客車列車の回送…こんな遅くまで働いてるんか…)

自分は1日働いて1日休んで、その繰り返しだけれど、そうでなくとも大抵の列車は夜は休むけれど、機関車は寝台列車以上に生活が不規則だと聞く。貨物の担当があれば旅客列車の合間の時間でも動かねばならないし、全国に車両がある場合は飛び回って様子を見て回らなければいけないからだ。

(DD51サンも、ED79サンも、EF81サンも、休んどるとこを見たことがない…ED76サンも…)

夏に運用が始まってから、ED76は何回か札幌駅や沿線で見かけた。大抵、いつも仕事のことを考えているような雰囲気で、屋内では山ほどの書類を抱えて、足早に歩いていってしまっていた。…全くもって、声を掛けられるような状況ではない。

(姿を見れただけでも嬉しいけどなあ…二言、三言でええからおはなしできたらなあ…)

そもそも所属会社だって違うのだ。

(なんで…なんでなん…まともに話したこともあらへんのに…)

気になって気になって仕方がないのだ。姿を見るたびに、目で後を追ってしまうのだ。

初めて会ったときの突き抜けるような視線が忘れられないのだ。

のそのそと窓から離れて布団に潜り込む。札幌は午後発なので、大阪にいるときより寝坊できる。

(明日は…おはなしできるとええなあ…)

(せっかく札幌におるんやし…)

寝つきはいい方だ。雑然とした考え事は、すぐに昏い眠気に飲まれていった。

 

「好きです結婚してください」

「はい…?」

言ってしまった。そんなつもりは全然なかったのに、言ってしまった。

「頭でも強く打ったりしたか…?熱があったりしないか…?」

相手が困惑しているのが分かった。無理もない。対面で話すのはほぼほぼ初めてで、これだ。口が滑ったどころのおはなしではない。

(ああ…どないしよ…)

 

「トワイライトエクスプレス。ちょうどいいところにいた。ちょっと話があるんだが。」

「?!」

ED76から声を掛けられたのはたかだか30分ほど前のことだ。地元でも沿線でも通称は「ぼん」なので、久しぶりに本名で呼ばれた気がする。我ながら、ずいぶんと長い名前だと思う。両手いっぱいに書類を抱えたまま、彼女は会議室へ行こう、と言って先に歩き出した。

「Bは広いな…Dあたりでいいか…」

ぶつぶつと呟いている背中を追いかけながら、自分の走行沿線の交流機関車よりかなり背が高いことを知った。DD51と同じくらいか、もしかすると彼よりも高いかもしれない。

「すまないが扉を開けてくれるか。手が放せないもんで」

会議室Dの戸を開けると、ヒヤリとした冷気が流れてきた。彼女は自分に奥の席を勧めると、会議机の上に書類を下ろして、幾枚かを渡してきた。

「前々から異動の話は出ていたんだが、先日詳細が固まった。514号機が青函仕様に改造されて転属する。他は505号機が三笠で、509号機が小樽で保存されるが、あとは廃車になる。」

「私は車体長がED79より長いから、北斗星を牽くと青森で問題が出る。おまえは編成が短いから、特に入線で支障は出ない。だから、おまえの牽引中心で入ることになる。」

渡された紙束を繰ると、たしかに説明されたようなことがつらつらと書かれていた。

「工事が終わったら走行試験もあるだろうからな、早めに言っておこうと思ってな」

ED76は肘をついて顔を傾げると、少し笑った。

「九州機の世話もあるから、弟に業務委託することも多いだろうが。これからよろしく?」

「よろしく、お願いします…」

「なにか質問は?まあ、今でなくてもいいが。見かけたときに呼び止めてくれれば。」

 

…それで、これである。何か言い繕おうと思っても言葉が出てこない。口を無駄に開け閉めしている様子を見て、彼女は本気でこちらの調子が悪いのだと思ったらしい、手を伸ばしてきた。額を触られて、さらに顔が熱くなる。

「……少し熱があるんじゃないのか…」

それは。あなたが目の前にいるからアガッているだけだとは。死んでも言うまい…と思っていたが、それどころでないことを口走っていたのだった、自分は。

「顔も赤いし。…調子が悪いときに話し込んですまなかったな…」

ものすごく申し訳なさそうに謝られた。そうではない。そうではないのだが。

「ちがう、そうやない…そうやないというか…76サンは悪うない…」

「いや、私が悪い。…部屋まで送っていくから、早く寝た方がいい。」

もはやまともに顔を見ることすらできない。目の前の書類をかっさらうと、椅子を蹴って部屋を飛び出した。背後から心配そうな声が聞こえてきたが、無視をした。

(あんなにええひとなんに、ボクは何をやっとんのや…)

(これで76サンが転属したら毎日会うことになるんか…アホか、アホやないか…)

とりあえず今日のことは忘れていてほしい。……望みは薄いが。

(穴があったら入りたい…)

 

「なにやってんだこのアホぼんが…」

「反論でけへん…」

「ほんとだよ」

EF81は心底あきれ果てた、という調子でため息を吐いた。

「門司でおまえは大丈夫かって訊かれたぞ?…こーゆーことだったのな。」

「面目ない…」

トワイライトエクスプレス仕様の深緑の服に身を包んだ機関車は、疲れた顔でガシガシ髪を掻き揚げた。

「機関車は忙しいの。ED76は九州島内の貨物と客車牽引の要だから、すげえ忙しいの。あそこは後継機を入れる見込みがまだないから、かなり先までED76中心で動くはずだぞ。おまえのことに頭を割いてる余裕なんかないの。」

「それは…」

分かっていたつもりだったけれど、こうもハッキリ宣告されるとかなりきつい。

「ED76になんかあってみろ、ED72とED73に俺が刺されるんですけど…」

「………ごめんなさい………」

EF81は渋面で腕を組んだ。

「好きになっちまったもんは仕方ねえ、でも相手と周りに迷惑は掛けるなよ?俺はちゃんと忠告したからな?」

「ハイ………」

「ED76にはちゃんと説明すること。わかったか?」

無言で頷く。EF81はちょっと表情を緩めると、「じゃ、昼からまたよろしく」と言って出て行った。

黄昏に、朱 漫画版
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