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​◎海峡を越えて(小説版)青函連絡船編 短編集2
ふるさと(あけぼの/第六青函丸)

 閉鎖してから長らく末の決まらなかった浦賀の工場跡が、この三月、市に寄付されたという。落ち着かない世間の様も手伝って春、夏、秋、と風の便りを聞く限りになっていたが、木の葉も散り切る師走も半ばを過ぎてから、ようよう足を伸ばす気持ちができた。

 上野から橙色の地下鉄、薔薇色の地下鉄、と乗り継いで、列車は一息に高架へ駆け上った。乗る人行く人、窓から流れる空と雲、ずいぶんと数を増やした瓦の波を眺めているうちに、水平線にチラチラとだけ光って見えた海は、すぐそこまで近付いていた。

 

 駅も、車両も、人々の姿も、記憶の中にあるものとは全く違う形で、改札を抜けた途端に体を包む潮風だけが僅かに「ここは知っている場所なのだ」とあたまを突いてくる。

 信号を渡って、ぽくぽくと歩いた。左に続く灰色の壁の向こうは、どうなっているのだろうと思った。何も変わらぬままあったらどうしようと思った。

 ふいに塀が途切れて、空が大きくなった。向こう側はもう造船所だった場所という。一歩踏み出すと、不安と期待と、なんだかよく分からぬものがごたまぜになって込みあげてきて、足取りが早まった。

 

 がらん、とした広場の端には小さい方のクレーンが立っていた。大きいクレーンは解体されて無くなったらしい、部品の一部だけが残されていた。白い柵から覗き込むと、見覚えのある煉瓦の段々があった。

 切符を買って底まで下りることにした。人に紛れてドックの端をぐるりと回る。ここはこんなに小さかっただろうか。四月足らずで北へ向かった身とはいえ、産土であることは間違いないだろう。自分の手足のように構内の隅々まで知っていたものだが。

 

 階段の最後まできっちり踏んで、盤木を見上げた。船が乗ることはもう無いのだろう、冬の青と白がどこまでも広がっていた。

 足元にはところどころ水が溜まっていて、頭上の青が映り込んでいる。人影は風が吹くたびにゆらりゆらりと動いた。伸びていく手足を持て余した少年でもなく、あちらこちらに傷を抱えた青年でもなかった。

 そこにあったのは今の自分。

 一ミリたりとも夢幻が混ざることのない、ただここにある自分。

 ふるさとの水鏡は、静かに全てを返してきた。

 

 上に戻ると鏡は何の変哲もない、元の黒っぽい水溜まりに変わった。

 柵越しにしばらく、並んだ赤い煉瓦を眺めていた。

 (また来てもいいですか)

 答えはない。視界の外れで雲だけがゆっくりと動いていく。

 目を閉じた。海の匂いと波の音でいっぱいになった。何もかもが変わっているけれど、ここに続くどこかには、きっと自分もいるのだと思った。

 

(それではまた、いつか)

 小さく挨拶をして、その場を離れた。

 日が落ちるにはまだ早い。もう少し周囲を巡ってみよう。

 渡し船に乗るのもよいだろうし、灯台に登るのもいいかもしれない。

 今、感じられるものを目一杯受け取って帰ろう。

 

 門を抜ける足取りは軽かった。

 次に訪れるときは、どんな自分があるのだろう。

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