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・此福と翼(さいわいとつばさ)

JR北の快速列車である海峡と、(旧)東日本フェリーの高速船であったゆにこん(ジェットフォイルの方)の

​物語をここに置いておこうと思っています。

題名は、森鴎外『妄想』の一文、「人間は此福(さいはひ)を犠牲にして、纔か(わづか)に世界の進化を

翼成してゐる。」から採りました。

Webサイト_小説_表紙_此福と翼.png

【小説版】

「……東日本フェリーが高速船を入れるって?へえ……」

快速海峡は、摩周丸の顔を眺めながら薄く笑った。

「こんなに早々と噂話を仕入れてくるなんて、随分と“政治”が上手くなったじゃないか」

「“戻る”のに間が開いたおまえと違って、俺はずっとこの海でふねをやっているんだよ」

摩周丸は海峡にコーヒーの入ったマグを渡すと、自分のものに角砂糖をどぼどぼと幾つも注いだ。

ここは、若松埠頭に係留されている摩周丸自身の喫茶室である。とはいえ、連絡船としては引退済みで、

保存先への正式な売却を待っている、という段階であるから、一般に喫茶を営業しているわけでは

到底なく、明かりは窓から差し込む日の光で、コーヒーも湯は保温ポットから注いだだけであった。

「ふうん」

海峡は、摩周丸が押してよこした缶の蓋を開けて、角砂糖を3つ、取り出した。

「じゃあ、“ずっとふねをやっている”おまえに訊くけど。その高速船は、“俺”と競合すると思うか?

 それとも、やり合うのは“はつかり”の方か?」

「そうさねえ……」

摩周丸はマグをぐい、と傾けて中身を飲み干すと、テーブルの端に無造作に積んである紙ナプキンで

口を拭った。白髪の連絡船は紙束をくるくると丸めると、その先端を海峡にずいと、突きつけた。

「間違いなく、競合するのは“おまえ”だね」

「……やっぱり」

両手を挙げて降参、という身振りをすると、摩周丸は海峡に向けた紙の筒を引っ込めた。

「聞いたところによれば、入れるのは水中翼船だという話だ。まあ、砕いた言い方をするなら、

 ジェットフォイルってことだな。……1時間40分で走るらしいぞ」

「青函を?」

「青函を」

早えなあ、高速船ってやつは。摩周丸は誰に向けるとでもなく、小さく呟いた。

「おまえは3時間50分だったよな」

「何が言いたいんだ?」

渋い顔をする連絡船を眺めながら、海峡はニコリと笑った。

「いや、最近の船は早いなと思って」

全く。おまえはいつもそうやってお茶を濁す。摩周丸はしかめっ面のまま、ぶつぶつと愚痴を零すと、

二杯目のコーヒーの袋を破った。

ことことと、器に雫が落ちていく。二人はしばし無言でその音を聞いていた。

「……運賃は?」

海峡が静かに尋ねた。

「まだ分からねえ。高速船は燃料を食うから、安かないとは思うけどな」

摩周丸は、今度はコーヒーに何も入れずにいた。

「おまえが有利なのは、運賃が安いのと、JR線の切符を続きで使えるとこだ。勝負になるかは向こうの

 料金設定と就航率と、船のやり繰り次第」

「勝負、ねえ……」

海峡は笑みを引っ込めると、ちょっと首を回して窓の外を見た。どんよりとした、いつものこの海の空だ。白波が少し立っているから、風も出ているのだろう。

「俺はそんなもの、無いと思うけど。……まあ、どんなふねかは楽しみだな」

 

 ***

 

「アンタがJRの鈍行列車?」

東日本フェリーの新造高速船:ゆにこんは、腕組みをしながら海峡を見上げた。

ホントに新しいんだな。「国鉄」と呼んでこないなんて。海峡は、ぼんやりと頭の片隅でそう思った。

釈然としないこちらの態度を見てとってか、彼女はムッとした様子で口をすぼめている。

気はそんなに長くなさそうだ。

「……なんか、言いなさいよ」

「いや、俺の津軽海峡線での立場ってなんだったっけ、と思って」

海峡は頭を掻いた。

自分は種別としては「快速」である。つまり、一応は優等列車の末席にいる。

ただ、海峡線の旅客駅は5つしかなく、海峡線を通る列車の中では自分がいちばん駅に停まるから、

まあ、ある意味では鈍行と言ってもいいだろう。

「呆れた」

ゆにこんは、頭を左右に振った。二つに結った髪が、頭に合わせて大きく揺れた。

「こんな寝ぼけたヤツがあたしの競合相手だったのね!」

びいなもびすばも、大げさすぎるわ!そう付け加えて、ゆにこんは不機嫌そうに眉を持ち上げた。

「このあたしと競合するんだから、よっぽど手強い列車かと思ったのに」

「……もしかして、おまえ、喧嘩を売ってる?」

途端、向こう脛を思いっきり蹴られた。結構、痛かった。

「売ってるに決まってるじゃない!あたしはアンタの競合相手なのよ!」

ぴょこぴょこと跳ねながら、ゆにこんは怒った調子で述べた。東日本フェリーのふねたちが、

国鉄とJRに対抗心を抱いていて、態度が全くもってよくないのはつくづく分かっていたが、

それにしてもこの娘はよく吠える。

「なんでこんなにどんくさい男が出てくるのよ!あたしはアンタよりずっとずっと速いんだから、

 もっと悔しがるとかしなさいよ!」

「えっと、その、」

そのとき。

「海峡」

背後から、氷のような声が聞こえて。海峡はおそるおそる振り返った。

「なんだ、コレは」

はまなすだった。そういえば、今日はマヤ検の予定が入っていて。珍しく昼から起きている日だった……

ような気が、する。

(おまえが出てくると話がややこしくなるから黙っててくれ!)

必死の身振り手振りを、夜行急行は完全に無視した。

「海峡、おまえは確かに寝ぼけてどんくさい快速だが、一方的に話を聞き続けるほどの性分じゃないだろう」

はまなすは喧嘩を買うことにしたらしい。それは、別に、いいんだけど。

「……あの、後ろのおにーさん、あなたの言葉でトドメ刺されたって顔してるけど」

気まずそうな顔で指摘される方が、身にこたえる。

「……」

「……」

「……」

沈黙が痛い。

「……すまない。言いすぎた」

はまなすに謝られるのも、ゆにこんが心底同情した顔をしているのも。

つらすぎる。

「ま、まあ?あたしとアンタの勝負はこれからだから?今日はこれくらいにしておいてあげるわ!」

ゆにこんは、少し上ずった声でそう言うと。身体を翻して、あっという間に姿を消した。

……ああ、これは。思っていたよりも、手強いかもしれない。

 

 ***

 

 東日本フェリーの桟橋は、JRの駅から離れている。昔はもう少し駅側にあったのだが、カーフェリー便を

多数運用するにあたって、街の外れの方に移したのだ。

ただし。

高速船の桟橋は、青森側も、函館側も、街の中にある。

つまり、フェリーターミナルより、ずっと駅に近い。

というか高速船桟橋はJRの駅を挟んで、フェリーターミナルの反対側にあるのだ。

だから、ゆにこんは、フェリーターミナルに行く用事があるたびに駅に顔を出した。

そして、海峡に喧嘩を吹っ掛けた。

「……おまえ、そんな態度でフェリーたちに怒られないのかよ」

あるとき、海峡が尋ねると、ゆにこんはちょっと得意げな顔で、こう答えた。

「いっつも怒られてるわ!」

「……」

呆れ果てて見返すと、高速船は頬を膨らませて不満げな顔をした。

「なによ。フェリーとあたしの話は、アンタには関係ないでしょ」

「……いや、仲良くしろとまでは言わないけど、同僚にはそれなりに礼節を持った方がいいぞ……?」

俺に言われたくないと思うけど。海峡はそう付け加えて、ため息をついた。

「なによ。アンタだって、はまなすに散々言われてるじゃない」

背筋が固まった。

「あれは妹だ」

「……ふうん。そんな感じには、見えなかったけど」

ゆにこんは、弱点見付けたり、というしたり顔で、首をちょっと傾げた。

困った。

この若いふねは、変なところで勘がいい。

「……双子だから。きょうだいらしさは薄いかもしれないな」

はぐらかしは、効いたのかどうか。

「双子?列車だと、そういうことも、あるのね」

あまり納得したようには見えないが、なんとか窮地は凌いだらしい。

海峡は心の中で、そっと安堵の息をもらした。

「あたしは、きょうだいの35番目だけど」

「35番目……?」

「あら、知らないの?ジェットフォイルは同型船が多いのよ」

ゆにこんは、自慢げに鼻を鳴らした。

「みんな、足が速くてすごいのよ!あたしと同じだわ!」

ここまで徹底的に自信を見せられると、逆に感心してくるくらいだ。

こちらの様子を見て、彼女はどうも、満足したらしい。

「まあ、アンタはアンタで頑張るといいわ!あたしの方がずっと速いけどね!」

ゆにこんは、フェリーターミナルの方に、軽い足取りで駆け出していった。

 

「……なんで、ふねだったって、言わなかったのよ!」

「訊かれなかったし。それに、そんなに大っぴらに言うことでもない」

ゆにこんに詰め寄られて、海峡は苦笑いしながら後退りした。

「おまえも聞いただろ?“死に戻り”は、いい文脈では使われない」

虚を突かれたような顔で黙り込む高速船を見て、海峡は念押しのように言った。

「あんまり詮索するんじゃないぞ?俺は忠告したからな」

 

「おい、海峡」

特急あけぼのが、慌てた様子で談話室に駆けこんできて、海峡は訝しげな視線を送った。

この男がこんなに取り乱すことも、珍しい。

「なんだ。東の案件ならそっちで片付けてくれ」

「そうじゃない。東日本フェリーんとこの高速船と、はまなすが大喧嘩している」

「……俺が出る幕じゃなくないか?」

はまなすは一度は喧嘩を買ったのだ。二人の気が済むまで、放置してもいいだろう。

「俺も最初はそう思ったんだけど。あの高速船、」

あけぼのは、困りきった、という顔で海峡に言った。

「津輕やら松前やら、おまえら二人の、ふねんときの経歴をすっかり調べててさ。

 さっきからそのことを言うんだよ。隠してるわけじゃねえが言いふらすものでもないから、

 早く行って止めてくれ」

 

果たして、海側の跨線橋を覗いてみると、二人は完全に火が付いた様子で、熾烈な言い争いをしていた。

聞こえてくる言葉の端々から、「北見丸」や「松前丸」といった覚えのあるものが耳に入ってきて、

海峡は頭を抱えた。

「……海峡、なんとかしてよ」

通路のこちら側の出入口から様子を伺っていた八甲田丸は、弱った顔で囁いた。

「あの娘、近いうちに桟橋が僕の近くに移るんだ。こんなのが毎日なのは困る」

これも、ある意味では、ツケが回ってきた。と、いうのだろうか。

海峡は、八甲田丸に背を押されて、しぶしぶ通路に歩み出た。

はまなすも、ゆにこんも、こちらを一瞥もしないで舌戦を繰り広げている。

こいつら、ここまでくると、もはや仲がいいんじゃなかろうか。

「おまえらやめろ。迷惑だ」

二人を同時に捕まえて、海峡は言った。捕まえるときに、お互いの頭が衝突したような気がしたが、

それくらい、いいだろう。

「はまなす、ここは職場だぞ。ゆにこん、おまえ、他人の情報を大声で喋るんじゃねえ」

「……喧嘩を売ってきたのはコイツが先だ」

完全に据わった目で、はまなすが言った。ああ、ダメだ。何を言っても聞きそうにない。

「この前は止めてあげたのに、わざわざ買ったのはあなたじゃない」

ゆにこんも、止めたこちらが悪いような目で睨んでくる。

……俺、なんでこいつらの仲裁をやらされているんだろう。

助けを求めようと振り返ってみる。八甲田丸は、既に姿を消していた。

「……分かった、もうどうでもいい。好きにやれ。思う存分、喧嘩しろ」

匙を投げると、二人は口を揃えて、

「「指示すんな」」

と、言った。

……やっぱり、こいつら、本当は仲良しなんじゃないのか。

 

 ***

 

 八甲田丸の埠頭の海側に、桟橋を移動したゆにこんは、駅にごく近くなったためか、前より頻繁に顔を出すようになった。……先の大喧嘩の一件のあと、はまなすとはお互いに何か通じるものがあった、らしい。

何故か、最近はまともに親しげに雑談を交わしている。

ああ、思った通り、似た者同士だった。と、海峡は嘆息した。

八甲田丸は喧嘩が起こらなくて安堵しているようだが、こちらの気苦労は倍である。

 海峡が頭を悩ませているものは、それだけではなかった。東日本フェリーの高速船の経営の悪さは、

投入から三年半ほど経ったいま、完全に明らかだった。この冬なぞ、四カ月も全便休航で、春を迎える前に売船されるんじゃないかと思ったくらいだった。摩周丸の言った通りになった、と海峡は思った。

高速船は、余程の条件が揃わなければ、運賃も経費も高すぎるのだ。

 

「アンタ、最近はあんまり編成が長くないのね」

ある日、ゆにこんがポツリと言った。

「元々、人が来る時期でもないしな」

海峡は、わざと話をずらして答えた。

「……そう。アンタが言うなら、きっとそうね!」

ゆにこんの顔が、少しだけ明るくなった。颯爽と走り去っていく姿は、いつもと同じだった

海峡は、暗澹たる気持ちでその背中を見送った。

間違いなく、東日本フェリーの高速船航路は、近いうちに廃航路となる。

少なくとも、ジェットフォイルはもう、入れないだろう。ゆにこんも、それは悟っているのだ。

 

そして、予想した通りに。

ジェットフォイル航路は、たった六年の運営で、幕を閉じることとなった。

 

東日本フェリーの高速船:ゆにこんの、運航が終わった日。

函館からの列車を迎えて、青森の駅の長い長いプラットフォームを、海峡が一人、歩いていると。

突如、目の前に、ゆにこんが現れた。

「……」

何も、言えない。何を言っていいのか、分からない。

こいつを廃止に追い込んだのは。

「……ねえ。なんでアンタは、そんな顔してるの」

ゆにこんは悔しさを滲ませた顔でそう、言った。

「アンタが勝ったのに、なんでそんな顔をするのよ」

「俺が勝ったんじゃない」

淡々と、海峡は返事をした。

「青函トンネルの開通で、この区間に一時的に人が戻った。それだけの話だ。ブームは終わったんだよ。

 北海道~本州間の旅客の行き来は、とっくの昔に航空が主流だ。」

だから、最初から、どちらかが勝った、負けた。という話では、ない。

海峡は、そう思っている。真面目に、真剣に、そう考えている。

だって。

青函連絡船が最盛期を迎えようとしていた裏で、旅客の輸送は航空に抜かされつつあったのだから————

ただ。

その言葉は、この若いジェットフォイルの心を逆撫でした、らしい。

「ブームの終わりも航空も関係ないわ。あたしは、アンタに負けたのよ」

ゆにこんは。

ほとんど叫ぶように、激情を喉から迸らせた。

「勝ったのだから、笑いなさいよ」

「そんな申し訳なさそうな顔されたら、余計、惨めになるだけじゃないのよ」

そう、言って。

どこかに駆けていく彼女を、海峡は止められなかった。

 

それきり、ゆにこんは。全く海峡の前に現れなくなった。

東日本フェリーのターミナルは、JRの駅から離れている。

フェリーより駅に近い高速船の桟橋も、函館のものはレンガ倉庫のそばにある。

だから、海峡が駅の周囲にいる限り、会う機会はない。

そして海峡は、ターミナルにも桟橋にも、足を運ぶことはしなかった。

……もっとも、海峡に限らず、JRの車両たちが東日本フェリーの施設に足を踏み入れるなんて、

そんな椿事はこれまで一度もなかったのだが。

 ゆにこんの買い手はすぐに付いた。その話を小耳に挟んだとき、海峡は少しだけ胸をなでおろした。

会社の拠点であるという「長崎」の地名が、わずかに心を刺したけれど、こちらだってテコ入れの苦境の

最中である。

慌ただしさの合間に、忘れ去ってしまった。

 ***

 

「急にはまなすと大喧嘩したと思ったら、今度はなんだかすっかり気が抜けたみたいになって。

 しっかりしてくださいよ」

ED79は、談話室の長椅子に寝そべる海峡に向かって、苦言をこぼした。

「快速を引退しても、君には仕事があるんですよ」

「……つっても、救援車だろ?」

赤い電気機関車は、ため息をついた。

「救援車だろうが予備車だろうがなんだろうが、仕事は仕事です。

 それに、君はまだ引退してないじゃないですか。来年の秋ですよ、引退は」

僕は貨物の世話があるからもう行きますけど、午後の便もキッチリ迎えてくださいね。

ED79は、そう言って、部屋を出て行った。海峡は、軽く手を振ってそれに答えた。

 

……電話が鳴った。

午後の気だるい微睡の中にいた海峡は、何事かと思いながら、のっそりと顔を起こした。

外線である。市外局番の0の次は9、どこの地区だったかまでは覚えていないが、

どうも九州からの着信らしい。

「……北海道旅客鉃道株式会社の快速海峡です」

「そういえば、アンタの会社って正式名称は長かったわね」

初っ端から失礼なことこの上ない台詞だが、随分と聞き覚えのある声と言い回しである。

「九州商船のぺがさす2よ。昔の名前は“ゆにこん”」

「おまえかよ」

海峡は溜息を吐いた。

「アンタ、引退するんですって?」

単刀直入にも程がある。そういえばコイツは青函に居た頃からそんなやつだった、

海峡の口からは再び吐息が漏れた。

「引退するよ」

その言葉の節々から何かを悟ったのだろう、ぺがさす2は少しの間だけ黙っていたが、

急にまた、口を開いた。

「引退前に休みを取って、長崎に来なさい」

息を呑んだ。

長崎。

坂と港と鐘のまち。

もうどこにもいない、どこにもいないのだと先に突きつけられた、姉船の笑い声が脳裏を過ぎって、

視界がぐらり、と瞬間だけ、歪んだ。

鉄道省に引き渡しされてから、一度たりとも戻ることのなかった……

「高速船の埠頭の最寄りは大波止よ。アンタなら分かるでしょ?」

ぺがさす2はそれだけ言って、電話を切った。

大波止。随分と懐かしい名だ。造船所から街の中心に繰り出すときは、いつも渡船でここに乗り付けて、

それから電車に乗り換えたものだった。自分はあまり頻繁には、外に出歩くことをしなかった、けれど。

つくづく因果なものだ。八十年も経って、郷里に足を運ぶことになるなんて。

 

 休みの許可は、あっさりと下りた。

ED79は、海峡の「長崎に行く」という言葉を聞くと、すぐに姉のED76を呼び出して、

長崎までの行き来の手配を行った。

初に動き出したのは自分だけれど、その後は、とりたてて骨を折ることもなく、

周囲がテキパキと段取りを付けて。

なんだか心が追い付かないまま、もう、準備ができてしまった。

 

 ***

 

 ED76の指示の通り身体を一回しすると、急に、函館とは感触の異なる空気に包まれた。

海峡は目をちょっと瞬かせて、飛び込んできた紅い光に慣れようとした。

真っ赤な灯籠、ふさの付いた提灯。あちこちに掲げられた龍や獅子の意匠。

「春節だよ。民営化する直前くらいかな?その辺りから大きなイベントになった」

ED76が、「長崎ランタンフェスティバル」と記されたポスターを指した。

「私はさくらと話があるから、基地に行く。移動の用があれば呼んでくれ」

ひらひらと手を振って、彼女はすぐに姿を消した。

 

 長崎の街は、早春の夕闇に包まれていた。次第に深くなっていく空の青の下で、あちこちに飾られた紅い灯籠や提灯の光がよく映えた。海峡は、浦上川に掛かる橋を渡り、国道に沿って南へ歩いた。

己は既に船の身ではない。造船所に入るのは、避けた方がよいだろう。ただ、かつて過ごして、旅立った場所は確認しておきたかった。そのために、ここに戻ってきたのだから。

 十八銀行の前を通り過ぎると、「三菱」の名が付いた会社の建物が一気に増えた

カーブの奥に、大きなクレーンが見えた。塀越しに煉瓦造りの建物を認めて、海峡は立ち止まった。

木型場。

かつての記憶と、目の前の黒々とした影が、ブレて、重なって、またブレて

頭の内側から目の奥にガンガンとぶつかっている。

嗚呼。

俺は。ここで生まれたのだ。

「おい、汽車の兄ちゃん。アンタすごい顔だぞ。大丈夫か?」

門から連れ立って出てきた若いふねらしき青年が、慌てた様子でこちらに駆けてきた。

俺も、昔はあんな感じだったのだろうか。たぶん、きっと、そうだった。

急に力が抜けて、海峡は、へなへなとしゃがみ込んだ。

まずい。

このままだと、造船所に運び込まれてしまう。

「見慣れない顔だが、さくらのツレか何かか?制服はJRのやつのだよな」

「誰か、駅に電話しろ」

必死に手を振って止める。既に大迷惑だが、これ以上、騒ぎを広げるわけにはいかない。

「大丈夫だ。大丈夫だって」

海峡は、無理やり立ち上がった。

制止してくる船たちに「すまん」と一言告げて、なんとか姿をくらました。

 

(どこだ、ここは)

目を開ける。とにかく離れようと飛んだはいいものの、とんでもない場所だったら大ごとだ。

幸いなことに、近くから人の声がする。少なくとも、街から離れてはいないようだ。

周囲を見渡す。目に飛び込んできたのは、街の光だった。

(……稲佐山か)

奥まった湾を囲むように、きらきらと、白や黄色や赤色の光の粒が踊っている。

足元に視線を移すと、三菱の造船所の全景が見えた。

変わったものと、変わっていないものと。

ここは長崎。故郷の街。

海峡は、しばし、目を閉じると。今度は、街に向かうことにした。

 

夜が明けた。

海峡は、空の端から段々と明るさを増していく様子を、やっとたどり着いた大波止の桟橋の隅でただ、

ずっと見ていた。

……なんだか、どこからか、足音がする。

 

「随分としけた面してるのね。アンタの顔が、ますます陰気に見えるわ」

九州商船の高速船:ぺがさす2は、座り込んでいる海峡に近付くと、ちょっとだけ、屈みこんだ。

「そこの軌道の車両が言ってたけど。アンタ、夜通し街をふらついていたんですって?バカなの?」

「……」

言い返す気力も起きず、ぺがさす2を見上げる。彼女は、しかめっ面をしながら缶コーヒーを差し出した。

「別に、アンタが心配なわけじゃ、ないんだから。ただでさえ祭りで忙しいのに、病人が増えたら困るだけ」

受け取った缶は、まだ温かかった。砂糖が入っているはずなのに、なぜだかいつもより苦みを強く感じた。

「三菱の工場には行ったの?」

ぺがさす2が訊いた。

「行った」

「ふうん」

高速船は、腕を上げて背伸びした。

「少し、歩きましょ」

 

川を渡って、出島を過ぎて、海岸通りを南下して。海峡はぺがさす2の後をとぼとぼと付いていった。

ぺがさす2は、海峡の様子を特別に伺うことはなく、気紛れにツバキの花を眺めたり、

水路のカモに口笛を吹いたり、通過していく路面電車に挨拶したり、した。

海峡は、ただそれをぼんやりと見ながら、オランダ坂も石橋の辻も、彼女に連れられて歩いていった。

だから、ぺがさす2が軽い足取りで、教会の中に姿を消したときも、止めることはなく、

何も言わずにそれに続いた。

 

早朝の天主堂には、誰もいなかった。ぺがさす2は、前から3列目の席に腰を下ろした。

続いて座ろうとすると、彼女は顎を振って、もっと前に行くよう合図した。

海峡は、戸惑いながら最前列に腰かけた。自分より前には、聖所しかない。

 海峡は、何も言わずに大祭壇を見上げた。

「ねえ」

背後の席から、ぺがさす2の声が聞こえた。

「アンタは“ゆるし”がほしいの?」

ゆるし。赦し。……どうだろうか。

それは、己の過ちが赦されるというのであれば、肩の荷も下りるというものであろうが。

「おまえに赦しを与える権威なんてないだろう」

神など信じてはいない。己はふねのみちをも外れた、ただこの世にこびり付いているだけのなにかだ。

……信仰というものを、否定することは決してない、けれど。

「そうね。あたしはアンタに赦しを与えることはできないわ」

だから、と彼女は二の句を継いだ。

「あたしはこう言うの。……“起きて、歩け”」

 

たぶん、それはただの偶然で。きっと、雲が少し途切れていた、だけなのだろうけれど。

瞬間。正面の絵付玻璃が、燃えるように明るく、輝いて。色鮮やかな、光が差し込んで。

そう、これは、まぶしくて目が眩んだだけ。

「……傲慢だな」

うまく声が出せないのも、驚いて口が乾いただけ。

「ええ。あたしは傲慢よ」

ぺがさす2は、笑っているようだった。

「だって、あたしは高速船だもの。アンタなんかより、ずっとずっと速いんだから」

 

 ***

 

快速海峡は、しばらくの間、ステンドグラスを黙って見上げていたが、三度ほど日が差し込んだのち、

不意に姿を消した。

「……バカね」

ぺがさす2は、口の中で呟いた。

「御礼なんて、言わなくてもいいのに」

立ち上がって、くるりと回る。大波止桟橋に戻ったぺがさす2は、目の前に広がる長崎の港を眺めた。

立っては消え、重なっては分かれる波の間に、無数の青が踊っている。

たぶん、きっと。その中には。あの海の色もあって。

(さよなら、あたしの青春)

ぺがさす2は、再び、くるりと回ると。

もう振り返らずに、船に向かって駆け出した。

 

(了)

【漫画版】 2026.04.15 展開メモ(かなり先の展開)

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​このシーンは本編第三部の直後(最終シーンの前)を想定。

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Twitter(創作アカウント)です。

togetterまとめです。摩周丸のドック入り記録とかあります。

noteです。随筆的なものが置いてあります。

pictSPACEの二次創作(『風が強く吹いている』)展示です。

pixivです。カラーイラストまとめと漫画・小説の一部があります。

Privatterです。創作裏話と小ネタがあります。

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