◎海峡を越えて(小説版)
第3部 灯は遠く揺らいで
日が傾ぐと共に、穏やかな山風が開け放された窓から忍び込んでくるようになった。
手元の教本のページを勝手に捲られて、松前丸は慌てて文鎮を挟みこんだ。
部屋の前の方の窓からは、対岸の大浦天主堂の鐘の音が聞こえてくる。
(……もう夕刻なのか)
じきに文字を読み取ることができなくなるだろう。その前に灯りを点けなければ。
仰向けに倒れて伸びをしていると、どこからともなく津輕丸が夜の気配と共に戻ってきた。
「……わたしゃ鶯 ぬしは梅 やがて 身まま気ままになるならば」
「また瑞唄か。……どこで誰に教わってくるんだか」
苦々しさを少しだけ混ぜてため息を吐くと、相手は気まぐれな猫のように笑った。
「知りたい?今夜付いて来る?」
「……別に」
嘘ではない。進水式を挙げてからこっち、津輕丸は造船所を抜け出しては街で遊び歩くようになった。
「船に遊戯は付きものさ」とは彼女の弁だが、外つ国へ渡る大型客船ならともかく、こちらはただの内航船、
運航時間だってたかだか数時間だ。言い訳にしか思えない。
津輕丸の態度は自分の思う連絡船の本分とは真っ向から対立しているのだった。
「松前、おまえは固いなあ」
「固くて結構。軟派は嫌いだ」
ふうん、と首をかしげると、姉は軽い足取りで近寄ってきて、教本の端をつついた。
「でも、おまえは私のことは嫌いじゃないだろう?」
息が止まりかける。松前丸は、真っ白になった頭をなんとか動かして、言葉を絞り出した。
「……そんな誘い方をされたって、夜遊びには付いていかないよ」
津輕丸はそれを眺めて、ふうん、とまた言うと、
「あんまり本ばかり読むなよ。目を悪くするからな」
と、勝手に教本を閉じて出て行った。
(今夜はどこに向かうのだろうな、津輕は)
きっと楽しくやっているのは分かっている。どこで何をしているのかは知らない。
……いや、知りたくないのか。
ランプの灯に寄せられて、蛾がふわふわと舞っている。松前丸はそっと目を閉じた。
……
……
久し振りに、長崎の夢を見た。
何も知らなかったころの、ただただ幸福な夢を見た。
無邪気だった君の、夢を見た。
冴え冴えと冷えていく指先を眺めながら、海峡はそっと息を吐いた。
(俺はもう「松前丸」ではない……船の姿すら取っていないというのに)
半世紀を優に超える年月が過ぎた。それでも記憶は鮮やかで艶やかで、そしてそのことこそが海峡の胸をひどく刺してくるのだった。
……たぶん。これが未練なのだろう。あるいはその一つか。
トントンと控室の扉が叩かれて、海峡は慌てて起き上がった。
「なんだ、おまえか」
「なんだとはあんまりな言い草だなあ。態度がひどい」
軽口を叩きながら入ってきたのは特急のあけぼのだった。
「まったく、俺の姿は見たくなかったという顔をしているじゃないか」
口の端に浮かべた笑みを引っ込めて、彼は呆れたように手を振った。
「海峡、おまえ、髪が黒くなっているぞ。……詰めが甘いな」
髪の端をつまんで見てみると、黒から群青に戻っていく様が分かった。自分の髪に言っても仕方ないのだが、今更である。
「……はまなすには言わないよな?」
「言わないさ、言わなくても知っているだろうと思うけどね」
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あけぼのは肩をすくめた。
「全く、おまえもはまなすも本当に面倒なやつだ」
「先刻承知のことでも口に出さない方がいいことはごまんとあるのさ、“六郎”」
あけぼののかつての名を口に出す。黒髪を見られたのだ、今日はこれくらい意趣返しをしたっていいだろう。
「……俺は別に“船だった”ことは隠してないぞ」
青髪の夜行列車は、しかめっつらで呟いた。“六郎”、それは彼が“第六青函丸”という船だった時の、仲間内での通称だった。
第六青函丸。青函トンネルが開通する以前に青森と函館を結んでいた、鉄道連絡船———青函連絡船のうちの一隻である。
———そう、彼は海峡と同じく“死に戻り”なのであった。
「大っぴらに言うもんでもないが、別に隠してもいない。だから、知ってるやつは知ってる」
機関車の古株なんかは俺が船の頃に会ってるしな、と彼は続けた。
「おまえだって、“前”んときにウチのED75を運んでたじゃないか」
「あれは面白かったねえ、俺の船尾を見た途端に顔色が変わるんだもの」
ふふふ、と海峡は含み笑いをした。
「二番線と三番線が分かれる前のところ、船尾の開口部ギリギリに載せられてさ、車両が短いからあの部分に載れたんだねえ」
「あんまりそれでからかってやるなよ。本人にとっちゃ強烈だったんだから」
あけぼのはため息を吐いた。
「“松前”、おまえ随分とあの頃から変わったよな。……あんまり“津輕”に心配を掛けるなよ」
“津輕”……津輕丸。急行はまなすの、かつての名である。
「変わったのはお互いさまじゃないか。……それに、“津輕”はもういない」
「……思ってもないことを言うんじゃないよ」
いつか聞いたような文句だった。いつか……いや、本当は、いつ言われたかハッキリ覚えているのだ、自分は。
あけぼのの方をチラ、と見る。彼は随分と優しい顔をしていた。前に言われたときとは違う、穏やかな瞳だった。
「まだ、うそつきは嫌いか?」
「嫌いだなあ。……まあ、おまえのことはそんなに嫌いじゃないけどね」
あけぼのはそう言うと。少しだけ笑った。
【つづく】