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​◎海峡を越えて(小説版)
第3部 灯は遠く揺らいで
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日が傾ぐと共に、穏やかな山風が開け放された窓から忍び込んでくるようになった。

手元の教本のページを勝手に捲られて、松前丸は慌てて文鎮を挟みこんだ。

部屋の前の方の窓からは、対岸の大浦天主堂の鐘の音が聞こえてくる。

(……もう夕刻なのか)

じきに文字を読み取ることができなくなるだろう。その前に灯りを点けなければ。

仰向けに倒れて伸びをしていると、どこからともなく津輕丸が夜の気配と共に戻ってきた。

「……わたしゃ鶯 ぬしは梅 やがて 身まま気ままになるならば」

「また瑞唄か。……どこで誰に教わってくるんだか」

苦々しさを少しだけ混ぜてため息を吐くと、相手は気まぐれな猫のように笑った。

「知りたい?今夜付いて来る?」

「……別に」

嘘ではない。進水式を挙げてからこっち、津輕丸は造船所を抜け出しては街で遊び歩くようになった。

「船に遊戯は付きものさ」とは彼女の弁だが、外つ国へ渡る大型客船ならともかく、こちらはただの内航船、

運航時間だってたかだか数時間だ。言い訳にしか思えない。

津輕丸の態度は自分の思う連絡船の本分とは真っ向から対立しているのだった。

「松前、おまえは固いなあ」

「固くて結構。軟派は嫌いだ」

ふうん、と首をかしげると、姉は軽い足取りで近寄ってきて、教本の端をつついた。

「でも、おまえは私のことは嫌いじゃないだろう?」

息が止まりかける。松前丸は、真っ白になった頭をなんとか動かして、言葉を絞り出した。

「……そんな誘い方をされたって、夜遊びには付いていかないよ」

津輕丸はそれを眺めて、ふうん、とまた言うと、

「あんまり本ばかり読むなよ。目を悪くするからな」

と、勝手に教本を閉じて出て行った。

(今夜はどこに向かうのだろうな、津輕は)

きっと楽しくやっているのは分かっている。どこで何をしているのかは知らない。

……いや、知りたくないのか。

ランプの灯に寄せられて、蛾がふわふわと舞っている。松前丸はそっと目を閉じた。

 

……

……

久し振りに、長崎の夢を見た。

何も知らなかったころの、ただただ幸福な夢を見た。

無邪気だった君の、夢を見た。

冴え冴えと冷えていく指先を眺めながら、海峡はそっと息を吐いた。

(俺はもう「松前丸」ではない……船の姿すら取っていないというのに)

半世紀を優に超える年月が過ぎた。それでも記憶は鮮やかで艶やかで、そしてそのことこそが海峡の胸をひどく刺してくるのだった。

……たぶん。これが未練なのだろう。あるいはその一つか。

トントンと控室の扉が叩かれて、海峡は慌てて起き上がった。

「なんだ、おまえか」

「なんだとはあんまりな言い草だなあ。態度がひどい」

軽口を叩きながら入ってきたのは特急のあけぼのだった。

「まったく、俺の姿は見たくなかったという顔をしているじゃないか」

口の端に浮かべた笑みを引っ込めて、彼は呆れたように手を振った。

「海峡、おまえ、髪が黒くなっているぞ。……詰めが甘いな」

髪の端をつまんで見てみると、黒から群青に戻っていく様が分かった。自分の髪に言っても仕方ないのだが、今更である。

「……はまなすには言わないよな?」

「言わないさ、言わなくても知っているだろうと思うけどね」

あけぼのは肩をすくめた。
「全く、おまえもはまなすも本当に面倒なやつだ」
「先刻承知のことでも口に出さない方がいいことはごまんとあるのさ、“六郎”」
あけぼののかつての名を口に出す。黒髪を見られたのだ、今日はこれくらい意趣返しをしたっていいだろう。
「……俺は別に“船だった”ことは隠してないぞ」
青髪の夜行列車は、しかめっつらで呟いた。“六郎”、それは彼が“第六青函丸”という船だった時の、仲間内での通称だった。
第六青函丸。青函トンネルが開通する以前に青森と函館を結んでいた、鉄道連絡船———青函連絡船のうちの一隻である。

———そう、彼は海峡と同じく“死に戻り”なのであった。
「大っぴらに言うもんでもないが、別に隠してもいない。だから、知ってるやつは知ってる」
機関車の古株なんかは俺が船の頃に会ってるしな、と彼は続けた。
「おまえだって、“前”んときにウチのED75を運んでたじゃないか」
「あれは面白かったねえ、俺の船尾を見た途端に顔色が変わるんだもの」
ふふふ、と海峡は含み笑いをした。
「二番線と三番線が分かれる前のところ、船尾の開口部ギリギリに載せられてさ、車両が短いからあの部分に載れたんだねえ」
「あんまりそれでからかってやるなよ。本人にとっちゃ強烈だったんだから」
あけぼのはため息を吐いた。
「“松前”、おまえ随分とあの頃から変わったよな。……あんまり“津輕”に心配を掛けるなよ」
“津輕”……津輕丸。急行はまなすの、かつての名である。
「変わったのはお互いさまじゃないか。……それに、“津輕”はもういない」
「……思ってもないことを言うんじゃないよ」
いつか聞いたような文句だった。いつか……いや、本当は、いつ言われたかハッキリ覚えているのだ、自分は。

あけぼのの方をチラ、と見る。彼は随分と優しい顔をしていた。前に言われたときとは違う、穏やかな瞳だった。
「まだ、うそつきは嫌いか?」
「嫌いだなあ。……まあ、おまえのことはそんなに嫌いじゃないけどね」
あけぼのはそう言うと。少しだけ笑った。


 ***

2001年、1月初旬。
「海峡」
世紀の変わり目も、そんな大したことなかったな。線路の横に積み上がる白い雪を眺めながら、

そんなことをぼんやりと考えていた海峡は、485系はつかりの、いつになく硬い表情に少し戸惑った。
「海峡。おまえ、東北新幹線の話は、追っているよな……?」
「……そんなこと言われても。俺が盛岡まで行けないってこと、よく知ってるだろ?

 そういう話は、お前が持ってくるものじゃないか」
途端。相手の顔は、ますます暗く沈みこんだ。
「年が変わったばかりってのに、来年の話で悪いけど。新幹線は、八戸まで伸びる。」
「へえ。刻むんだな」
なにか。
なにかが、あたまの奥の方で。
気が付いてはいけないと。
警鐘を鳴らしている。
海峡は、ちょっと肩を回して、彼の方を見返した。
「“刻むんだな”じゃないぞ、海峡。あのな、落ち着いて聞いてくれ」
特急はつかりは、なんだか、苦しそうな顔をしていた。
「海峡線の昼行の系統が、統合される。はつかりも海峡も廃止だ。八戸から函館の特急が、新しくできるんだ。

 ……おまえ、来年に引退になるんだよ」
来年。
引退。
「詳しいことは、この書類を読んでくれ。……海峡。お願いだから、落ち着いてくれよ」
茫然としている海峡の手に、無理矢理、紙束を握らせると。特急はつかりは、足早にその場を去っていった。
……
……
そろそろと。
そろそろと、文書の文字を、なぞってみる。全く内容があたまに入ってこない。
それでも、
それでも、分かった。
東北新幹線が、八戸駅まで伸びたら。
快速海峡は、廃止になるのだと。
……
……
分かっている。
知っている。
自分は後悔ばかり、大罪を重ねに重ね、どこに逝くこともできず、この世に留まっている、ただのなれの果てなのだ、と。
どうせ後を追うならば、その罪は独りで抱えればよかったものを、他者を巻き込み、終わり無き道を歩む身へと堕とした。

己の手は、血と脂と煤に塗れている。
それでも。
それでも。
それでも。
現実をこんなにも、冷酷に冷淡に無情に突きつけることは、ないじゃないか。
海峡は、口の端に自嘲の笑みを浮かべながら、これから掲示されるという告知の紙を、もう一度だけ、ゆっくりと眺めて、

片手でそれを握り潰した。
ああ。
これから、自分はどうすれば……


「海峡」
声が、聞こえた。

 

声。
声。
いま、いちばん。聞きたくなかった、声。

ああ。いやだ。
きっと。いや、間違いなく。自分は、いやなやつになってしまう。

 

「海峡、何があった。どうしたんだ」
「やめろ。やめてくれ。こっちに来るな」
一歩、下がると背が壁に当たった。相手は心底困惑した顔で、お構いなしにずかずかと近付いてきた。
「来るなと言っているんだ。……“おまえ”は嫌いだ」
「何を言っているんだ……?」
俺を見るな。
“津輕丸”と同じ顔で、同じ表情で、俺のことを、
「おまえは私のことは嫌いじゃないだろう?」
息が止まった。視界がぐるぐると歪んでいく。相手がさらに言葉を重ねているのだけは分かったが、

何を言っているのか、全く分からない。
ああ。
もうだめだ。
「だって、……だって“おまえ”は、“津輕”じゃない」
……
……
……
眩暈が収まったので、視線を上げた。
真っ青な顔で立っている、“はまなす”がそこにいた。
「……何事ですか⁈」
ED79の声が遠くから聞こえた。走って近付いてくる足音も、聞こえた。
「“海峡”」
はまなすが、低い声で言った。
「私はおまえが“翔鳳丸”と“津輕丸”の模倣をしているのは許容していた。それは“私”の責任でもあるから。

 おまえはそうあらねば自己が保てないのだと知っていたから」
口を開いた。一つも声は、出せなかった。
「“私”は“私”だ、青函連絡船であった過去をもつ、“急行はまなす”だ。そしておまえは同じく青函連絡船の過去をもつ、

 私の双子の兄の“快速海峡”だ。おまえはそれが嫌なのか?」
「……だって、」
ああ。
言ってはいけないと、頭では分かっているのに。
「“津輕”も、“北見”も、俺を置いていった」
今度こそ、はまなすの顔から、一切の血の気が引いた。
「急にいなくなるのは、いつも“おまえ”の方だったじゃないか」
「海峡、11月末で引退するのはおまえだが?……それに、名のある客車列車は、すぐに消えるわけでもない」
聞こえてきた声は。少しだけ、震えていた。
それが。
なぜか。一気に心を逆撫でした。
「だからだよ」
そんなことは、言われるまでもなく分かっている。
知っている。
「俺は、このまま、“津輕”に会えないままで、“海峡”として生き続けるんだよ!」
体を起こした。一歩、また一歩、踏み出しても、相手は逃げなかった。
ただ。
ただ、その目が、

「……頭を冷やせ、このクソボケが」
急に後ろから羽交い絞めにされて、海峡は目を瞬かせた。同時に、頭部にガツン、とひどい衝撃が加わった。

ちょっと首を回すと、帯状の模様が入った、羽織の袖が見えた。
「……あけぼの」
もう一度、ガツン、と先ほどよりひどい衝撃がきて、急に拘束が解かれた。

涙目で振り向くと、心底呆れた、という顔の特急あけぼのと、その横で、屈みこみながら荒く息を吐いているED79の姿が

目に飛び込んできた。……どうも、ED79があけぼのを連れてきたらしい。
「言っとくが、“六郎”と呼ばれていたら、もう一発、殴ってたからな?」
あけぼのは、やれやれ、と息を吐いた。
「ED79、悪いが北斗星も呼んでくれ。今の時間は上野に居るはずだが、おまえからの電話なら一回で繋がると思う。

 “六郎が青森に来いと言っている”これだけ言ってくれればいい。すぐに来るはずだ。

 ……はまなす、このバカは俺が一旦預かる。それでいいな?」
はまなすの返答は聞こえなかった。

あけぼのは口を閉じた瞬間に再び海峡をガッチリと羽交い絞めにして、はまなすの返事を全く待たずに、

海峡を部屋から連れ出したのだった。

「おまえさ、いい加減にしろよ」

誰もいない屋上に海峡を引きずり込んで、やっとあけぼのは彼を解放した。

「頭は冷えたか?おまえ、あそこで俺が来てなかったら何をやらかしていたと思う?

 別に答えなくていいよ、大体分かるから」

俺はおまえの尻拭い役じゃねえんですけど、あけぼのは更に付け加えて、深々と息を吐いた。

「“松前”、俺、こないだ“津輕に心配を掛けるなよ”って言ったよな?」

……確かに、そう言われた、記憶はある。忠告されたのに、この有様だが。

……

……

そういえば。どうしてあのとき、この男は。「はまなす」ではなく「津輕」と言ったのだろう。

目の前の彼が、船の時分から今に至るまで、呼び名と状況の使い分けには、非常に厳格であることを、海峡はよく知っていた。

「“あけぼの”、」

「なんだクソボケ」

自業自得とはいえ、ひどい呼ばれようである。

「おまえ、あのとき、なんで“はまなす”のことを“津輕”と呼んだ?」

青藍の瞳がこちらを一瞥した。

……こいつの瞳の色は、昔と全く変わらない。

「いつものおまえなら、“はまなす”と呼ぶ状況だろう」

「……確かに頭は冷えてきたようだな」

ふうん、と細く息を漏らすと、あけぼのは屈みこんで、海峡の頭をちょっと小突いた。

「……昔話とやらを一つ、してやろう」

彼は海峡の胸ポケットから煙草の箱を抜き取ると、カラカラ、と振りながら立ち上がった。

「もう随分と昔の話になるが、ひねくれものの連絡船がいた。危急の時期に、急ごしらえで造られた船で、

 穏やかな日というものを知らず、余裕というものを持たず、いつもいつでもなんだか投げやりに過ごしている、そんな船だった」

口を開きかけた海峡を左手で制して、かつて連絡船だった特急は続けた。

「そいつには大嫌いな同僚がいた。平穏な時代に丹念に丁寧に拵えられた客船で、理想家で夢想屋で、

 機銃を据える事態になったときにも最後まで手を伸ばさなかった。本当に甘くて愚かで、そして、

 ひねくれものの連絡船にはない、“余裕”というものを持っていた」

だから、嫌いで嫌いで仕方なかった。今から思えば、その「余裕」が羨ましかっただけ、ということなのかもしれないが。

三日月のように目を細めて、彼はこちらを見下ろしながら、話を続けた。

「あるとき、大きな空襲があった。同僚たちの多くが海の底に沈んだ。へそ曲がりの連絡船は沈没こそしなかったが随分と壊されて、

 宙ぶらりんの立場で青森と函館の間をふらふらとしていた。そのうち、戦争に負けた、という告知があった」

函館ではよくある曇り空の日だったな、と、誰に言うとでもない一言を付け加えて、青髪の夜行列車は、視線を逸らした。

「甘ちゃんの同僚は空襲の日に七重浜へ乗り上げて、そこから動けずにいた。だから、教えてやろうと思ったんだ、

 ひねくれものの連絡船は。気紛れに。戦争は終わったんだということを」

いつの間にか取り出していた煙草の先に指を滑らせると、煙が立ち始めたそれを咥えて、彼は再びこちらを向いた。

「戦争は終わった。ラジオの放送は聞きとりにくかったが、とにかく、降伏を受け入れるということは伝わった。

 それを、そいつにそのまま話した。……まあ、今になって言うならば、正確な終戦は半月後だったんだが」

吐息に白煙が混じる。

「そしたらさ、そいつ。なんて言ったと思う?」

自嘲の色が、元・連絡船の顔をサッと横切った。

「“津輕”がいない世界に居たって仕方ないから、さっさと撃ってくれ、ってさ」

嗚呼。

これが、俺の、罪。

こいつを地獄に連れ込んだのは。

「そいつの壊れ方はちょっと尋常じゃなかった。沈んでいないだけだった。

 船として修復される見込みは、船腹不足のその時期でも全く無かった。

 だから、……だから、“俺”は、半分は、そのつもりで行ったんだ。そいつが頼んでくるなら、介錯してやってもいいと」

でも、そんな話じゃなかったんだよな。“あけぼの”は、そう言って。指の先で、煙草の火を揉み消した。

「取り返しが付かなくなって初めて分かった。なんてことを“俺”はするんだと。……そして、して、しまったんだと」

「そいつには大事なものがあった。“俺”には無いものがあったんだ。

 大事なものがあったのに、そいつごと“俺”は……そいつの大事なものごと、“俺”はそいつを、殺した」

「おい」

「うるせえ。俺はずっと、そう思っている。だから最後まで話をさせろ」

あけぼのは怒ったように遮ると、幾分か早口になって、あとを続けた。

「随分と後悔して、その後は事実、しばらく狂った状態になってたんだと思う、 “俺”は。

 七郎には呆れられるし八郎には正気に戻るまで避けられていたし、宗谷丸は最初こそ心配していたけども、

 “俺”があまりにも腑抜けてるもんだから、最終的に“自分の航路にいられるおまえに何が分かるんだ”って怒鳴られたし」

はあ、とため息をつくと、あけぼのは煙草の箱を、海峡に手渡した。

「結局おまえは何が言いたいんだ、って顔してるな」

一本ぶん、軽くなった箱を胸ポケットに仕舞いながら、海峡は頷いた。

「海峡。おまえは、大事なものを失わないために、自分をもっと大切にするべきだ」

「……俺の話だったのかよ」

「そうだよ。はまなすに、という話なら俺は“はまなすに迷惑を掛けるな”と言っている」

俺の線引きはよく知ってるだろ、とあけぼのは呟いた。

「“津輕丸”のことは、俺も摩周も覚えているが、実際のところ、“六郎”も“四郎”も、“津輕”とは何年も付き合ってねえし、

 なにぶん危急の折のことだったから、深くは知らん。そもそも、摩周の記憶はだいぶ歯抜けだ。

 最近、四青函の位置がハッキリ分かって詳しい調査があったから、多少は違ってきたみたいだが。

 摩周がそうなんだから、はまなすの記憶は輪を掛けてあやふやだろう。

 おまえの大事な“津輕丸”が居るのは、海峡、おまえの中だけなんだよ」

屋上からは、連絡船が昼夜を問わず、離着岸していた桟橋と。青い青い、海が見える。

本州と北海道とを隔てる、海峡に繋がっている海。

こいつは、もう行くことができない……

「あけぼの」

「なんだ」

遠く、港のその向こうを眺めていたあけぼのは、薄目でこちらを見た。

「思っていることは、いいのか」

「……そんなの、俺がいい悪い、言う話じゃなかろう」

そんなに聞きたいなら、憲法序文から諳んじてやろうか?

おまえは俺のあたまが固いと思っているくせに、そんなことを言うんだな。

あけぼのは目を逸らすと、口の中で何事かを呟いた。

「いつまでも吹きっさらしの屋上にいたら、よくないな」

海峡の背を、階段の方に押しやりながらも、彼は海から目を離さなかった。

一つ下の階に戻ると、ちょうど、西日が窓から差し込んでいた。

明るいオレンジと山吹色が、壁と床とにだんだら模様を作っている。

だんだらは、港の中から外に広がって、いつか、いつだったか、見たような濃淡を描いている。

海峡は、ちょっと立ち止まると、窓の向こうを指差した。

「あけぼの。おまえ、実は、屋上やここに来て、時々、海を見てるんじゃないのか」

「……まあね」

小さく肯定の声が、返ってきた。

「俺は青森じゃ大抵三岸を使っていたがね。それでも偶に、来たくなってしまうんだな」

あけぼのは壁に寄りかかると、目を細めて通路の先を見た。

「おかしいよな。行けなくなって初めて、函館が恋しくなるんだ」

「……思い出になるってそういうことさ。」

桟橋まで行くか、と尋ねると、相手は今日はいいかな、と首を振った。

「もうすぐ上りの列車が出る時間だ。行かないと」

沈みかけの夕陽が、辺りを紅く染め上げていく。

「また会えるか」

かつての名前を言いかけて、躊躇って、海峡は言葉を中途半端に飲み込んだ。

「“六郎”で構わんよ。仕事中は、あけぼのと呼んでほしいけど」

結った蒼い髪を振って、彼は海峡に笑いかけた。

「俺は俺だ」

「あなた、本当にバカね」

青森駅の、列車たちの居室が並ぶ廊下の奥の奥に、古びた書庫が一つ、ある。

海峡は特急北斗星に呼び出されて、先ほどからこの書庫で、こってりと油を搾られていた。

要は、共用の控室では流石に不味かろうと、情けを掛けられたわけである。

あけぼのもそうだが、詰るにしても案外、優しさがあるのだな、と海峡は頭の片隅で少し思った。

「集中」

鉄でできた棚板を鋭く叩く音で、海峡は現実に思考を戻された。

北斗星は、これ以上ないくらいに冷ややかな目で、こちらに視線を向けている。

「もう一回言うわ。あなた、本当にバカね」

「……弁明も、できません」

「本当に本当に、おバカさん。自傷はともかく、八つ当たりするのは違うわ」

北斗星は、はあ、とため息を吐いた。

「私、そういう状況のあなたに塩なんか送りたくないのよ」

「……」

「私はね、自暴自棄になってるあなたに塩なんて、送りたくないの」

念押しのように同じことを言うと、北斗星は再びため息をついた。

「はまなすが、今の自分にはどうにもできないからって。

 大抵のことは自分でやりたがる、大体のことは自分でなんでもできる、あの子が柄にもなく必死に頼んでくるから、

 しぶしぶ引き受けたのよ」

ホント、罪な子よね、と付け加えると、彼女は真っすぐにこちらを見据えた。

「ねえ。あなたにとって、“津輕丸”は、いったいどんな存在なの?」

……息が、できない。

「あなた。昔は今みたいな性格じゃ、なかったんでしょう」

「……なんで?」

なぜ、それを。知っている。

「“北見”が言っていたわ。“日高は津輕と翔鳳の模倣をしている”って」

「……おまえには、“洞爺丸”の記憶が、そのままあるのか……?」

洞爺丸。太平洋戦争後、青函航路に就航した、待望の新造客船。

そして、その名は。

「忘れたの?浮揚のときに、状況を教えてくれたのは“あなた”でしょ」

凄惨な事故を起こした船として、事故の原因となった台風の通称として、世に刻みこまれている。

青函連絡船・洞爺丸。誰も大きな声で言うことはしないが、北斗星はその死に戻りであった。

「洞爺丸は浮揚して、徹底的に調査されたわ。船体が未だに海底にある、津輕丸や第四青函丸とは話が違うの。

 それは、“あなた”がいちばん知っているはずのことでしょう」

「……だって。おまえ、そんなこと、一度も……」

「今の私は北斗星だもの。私は、今の私の務めに専念するだけのこと」

北斗星は片足の爪先で、コツ、と床を蹴ると、寄りかかっていた壁際から体を起こして、海峡に一綴りの書類の束を、差し出した。

「“北見”はね、ずっと悩んでいたわ。“自分のせいで松前が変わってしまった”って。

 就航からしばらく、北見丸は書庫によく居たでしょう。あの子が読んでいたのは、これよ」

昭和20年の運航成績表。計画された運航の線とは、かけ離れた線が表の上を駆け巡っている。

時刻表も塗りつぶされて、計画的な運航なんて、ほとんどできなかった、あのころ。

「記憶が歯抜けなのは状況の問題よ。少なくとも、摩周はそう話していたわ。だから、いくら当時の記録を読んだって、

 記憶が戻ってくることはないはずなの」

そんなの、北見もよく分かっていたでしょうに。そう言いながら、北斗星は海峡を睨んだ。

「だから、北見が必死に“津輕”の記憶を探していたのは、あなたのためなのよ」

————私はあちらで……函館で、“津輕丸”の軌跡を探そうと思う————

不意に、北見丸が浦賀を発つ前に呟いた言葉が、あたまの中に、ぽかりと浮かんだ。

あの日は、風がずいぶんと強い日で。

逆巻く圧に目を細めると、かつての津輕丸のすがたが、彼女に、北見丸によく重なったものだった————

————分かっているのだ。

津輕丸は、もう、いないのだということは。

田浦の梅林で、この言葉を告げられた、あの日から。

どうしても、諦められきれない、自分が居るだけだということは。

ずっと、ずっと分かっているのだ。

そこから、目を逸らし続けていただけで————

「妬けるわね。私は北見が好き。はまなすが好き。あの子を苦しめるあなたは、嫌い」

北斗星は、……北斗星は、困ったような、少しだけ泣きそうな顔で、そう、言った。

「だからね、今のあなたに塩なんて、送りたくないの。でも、はまなすが頼んでくるから」

————ああ。

こいつは、聡いから。

俺の心の小さな変化が、分かってしまったのだ。

「……おまえは、いいやつだな」

海峡は、先ほど手渡された、運航成績表の束を差し出した。

「いいやつ、ね。あなたにそう言われたって、嬉しくないわ」

北斗星は綴りを受け取って、ぷい、とそっぽを向いた。

「今の時間は、控室に誰もいないでしょう。15分後に、はまなすを送るわ」

「……訂正。北斗星、おまえはすごくいいやつだな」

だから、あなたにそんなこと言われたって。嬉しくないって、言ってるじゃない。

北斗星は少しだけ見返ると、口の端に僅かばかりの笑みを浮かべて、そう、答えた。

 

 

青森駅に出入りする、車両たちの共用の控室は、2つある。

一つはJR東日本所属の車両が主に使っているもので、相当、大きな部屋であり、大抵の時間、誰かしらは部屋にいる。

もう一つは、元々は青函連絡船用の溜まり場だった部屋で、その経緯から構内の海側にあり、少しばかり、こぢんまりとしている。

青函連絡船が廃止となった今では、海峡線を使って南下してくる、JR北海道の車両たちの控室となっていた。

海峡は、控室のソファの片隅に腰かけて、なんとなく天井を見上げていた。

現在の駅舎は4代目、昭和34年に建てられたものだが、この控室もその頃に現れたはずだから、

あの染みも、この壁紙のパターンも、“日高丸”の頃からよくよく見覚えがある。

青函連絡船も無くなって久しい、14年も経つのだから。海峡は、ぼんやりと、そんなことを思った。

海底を通る連絡隧道の構想こそ古くからあったものの、それが実現するなんて、かつては夢にも思わなかった。

 

———わたしゃ鶯 ぬしは梅 やがて 身まま気ままになるならば サァ 鶯宿梅じゃないかいな———

いつか聞いた唄を口ずさむ。こんなにも時が経ったのに、この文句は悔しいほどによく覚えている。

……それだけ、津輕丸のことを追っていたのだろう。

———サァサ なんでもよいわいな———

雁字搦めの糸を紐解いて、過去に拘泥することが無くなったならば。

今度こそ真っ当にきょうだいをやれるだろうか。

津輕も、松前も、北見も、日高も、青い青い海に浮かぶ思い出の一欠片にして。

 

戸を軽く叩く音がした。

「はい。……俺しかいないよ」

微かな冷気と共に、はまなすが入ってきた。はまなすは後ろ手で扉を閉めると、とぼとぼと歩いて、海峡の前の長椅子に腰かけた。

……心なしか、普段より元気がない。もっとも、その原因は、こちらにあるのだが。

天色の瞳が、海峡を見据えた。

「……おまえは、“津輕丸”が、好きだったのか?」

静かな声で、はまなすが問うた。

「どうだろう。分からない」

船であった時分のことは、全て覚えているはずだ。それこそ長崎の造船所で、彼女が自分の目の前で取った一挙一動は、

些細なことまで鮮やかに、枝葉末節に至るまで思い出せる。

それでも、分からない。己が津輕丸に抱いていた感情を、いや、今でも抱き続けている想いを、何と言い表せばいいのか、

言を尽くしたところで、全くもって、分からないのだ。

「恋仲になりたいわけじゃなかった。ずっと姉と弟の関係でいたかった。手の届かぬものを手の届かないままに傍へと置いて、

 焦がれ、憧れ、灼かれ続けていたかっただけなんだろう。たぶんきっと、俺は天狼の首星になりたかったんだ」

静が面白がるわけだ、と呟く。当時は嫌悪していた相手だったけれど、今から思えばただの嫉妬だ。

海千山千の年嵩の補助汽船からすれば、一目で分かることだったろう。

「俺だけのものにはしたくなかった。けれども、一等席にいるという地位だけは奪われたくなかった。

 自分勝手で、自己中心的で、ワガママすぎる願いだ」

好き、嫌い、のどちらかを取れと言われるならば。それは、「好き」であることは、違いない。

今に至るまで想いを寄せ続けているのも、そうだろう。

だけど、それは。

きっと、これは。

「俺は。“津輕丸”の、特別であり続けたかった。そういうことなんだ」

ずっと。ずっと、特別でありたかったのに。

「“私”は、“津輕丸”ではないよ」

はまなすは、淡々と言った。

「“津輕丸だった”のは確かだけれども、今の私は“はまなす”だ」

「……分かっているよ」

そうだね。

津輕丸は、もういない。

自分が追い続けたかった、特別でありたかった、相手はもう、いない。

「ごめん」

ぐるぐると。自分を責める言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消え。

目が回りそうになりながら、声を振り絞って。やっと出てきたのは、これだけだった。

「海峡」

はまなすは、少しだけ悲しそうな表情で、言った。

「私たちは、これからどうすればいいんだろうな」

それは、そうだ。

いつか破綻するのは分かっていた。拗れに拗れた、関係とはいえ。

それ「二人とも!!!いい加減にしてくださいよ!!!」

 

突然、部屋のドアが勢いよく開けられて、ED79がずかずかと入ってきた。

開け放しのドアの向こう側では、珍しく焦った顔の北斗星と、頭を抱え込んだあけぼのが、二人仲良く置き去りにされている。

「海峡も!はまなすも!いきなり喧嘩しはじめて!僕の気にもなってくださいよ!」

ED79は、もう辛抱ならん、という顔で、頭を振った。

「すっっっっごい気まずかったんですから!!!事情も尋ねにくいし!!!」

「……あの、」

「北斗星もあけぼのも、なんにも教えてくれないし!!!」

「……ええと、」

「普通のきょうだいをやればいいじゃないですか。きょうだい、なんだから」

ED79は、そう言った。

「「……」」

「きょうだいなんて、仲いいときも悪いときもあるもんでしょう」

だから、二人とも、お互いを思ってすれ違ってるんだから。

普通に、きょうだいやってください。

ED79は、きっぱりとそう、言い切って。くるり、と背中を向けると。

今度は、北斗星とあけぼのに向かって、勢いよく文句を言い出した。

「……」

「……」

海峡とはまなすは、顔を見合わせた。

「……北斗星が、可哀想だから。間に入ってくれるか?」

「……海峡。それならおまえは、あけぼのの方に入ってくれ」

二人同時にため息をついて、また、顔を見合わせる。

「「じゃあ、そういうことで」」

歩いていく。互いの歩む方向は、少しばかり、違うけれど。

どこかで、また交わったり、向かい合ったり、する……こともあるのだろう。

きょうだいだから。

その言葉は、呪いで、祝福で。自分を縛り続ける鎖で、この世に繋ぎ止めてくれる楔で。

それを、改めて、実感する。

「……ま、それはともかく……」

ED79の肩に手を掛ける。

ちょっと目線を上げてみると、はまなすは、しどろもどろの弁解をしている、北斗星を背後から引っ張って。

距離を稼ごうとしていた。

 

きょうだいだな。ああ、きょうだいだ。

それでいい。

それで、いいんだろう。

「ED79、悪かった。俺が悪かったから、まずはちょっと落ち着いて……」

 

 ***

 

2002年。11月30日、土曜日。

「……まったく。二人が大喧嘩するなんて。思ってもみませんでしたよ」

函館駅の長い長いプラットフォームを歩きながら、ED79はブツブツと文句を言った。

「あのときは、ホントにどうなることかと、心配したんですから!」

「……もう、結構経つと思うんだが。まだ言う?」

海峡は、苦笑いしながら、頭の後ろに腕を回した。

「いつまでだって、言いますよ!気が気じゃなかったんですからね。

 ……ていうか、そんなに悩んでいたなら、僕でも誰かでも、相談してくださいよ!

 “悩みごとは抱え込むなよ”って、二人とも、いっつも言うくせに!そっちは抱え込むんですから!」

ED79は海峡を睨んだ。

「ハハハ」

「笑ってる場合じゃないです」

今日はあと、1往復ですかね。ED79は手元の運行票を眺めながら、横目でなおも海峡を睨んだ。

……真面目だなあ。

ああ、コイツは。

本当に、真面目だ。

 

「ED79」

「なんです?」

赤髪の電気機関車は、今度は一体何の用だ、とでも言わんばかりの口調で、返してきた。

「はまなすのこと、頼む」

「……?」

首をかしげて、当惑した顔でこちらを眺めるED79に、海峡は言った。

「俺、今日で引退だからさ。明日からは、自由にあっちこっち行くわけにはいかない。

 何かあったときに、あいつのそばに居てやることは、できないんだ」

ずっと一緒だった。置いていかれるのはいつも自分の方だった。でも、今回は。

……いや、これからは。

「だから、頼む。……大事な、きょうだいなんだよ」

自分は随分と、梅を鶯の宿として、縛り続けてしまった。

後悔は尽きない。悔やんだところで、きょうだいをやめることもできない。

……そして、それは。相手も望んでいないことだろう。

ただ。

鶯が飛び立つのであれば、梅の木も、別の道を歩む選択肢を得るべきだ。

「頼むなら、北斗星あたりでよいのでは……?」

なぜ、自分に頼むのか。どうにもピンと来ていない顔で、ED79はなおも首をひねった。

……鈍すぎる。まあ、そういうところが、俺はいいと、思っているんだけど。

……だけどさ。

きょうだいとして、少しばかりのワガママは、言ってもいいよな。

ちょいちょいと手招きをすると、ED79は。ちょっと躊躇ったのちに、そろそろと、頭をこちらに傾けてきた。

「おまえ、そろそろ自覚くらい、しろ。……不幸にしたら、承知しないからな」

一呼吸、二呼吸置いて。

やっと意味を理解したのか、耳まで真っ赤になりながら飛びのいて、あたふたしているED79を眺めながら、

海峡は久し振りに晴れ晴れと笑った。

 

これから何がどうなっていくのかは、それは。全く、分からない、けれど。

身まま気ままになるならば。それはそれで、いいじゃないか。

 

当地の霜月にしては珍しく、この晦日は、雪もなく。

見上げると、澄んだ夜空が広がっていた。

ああ、天狼がよく見える。

その輝きは、今も昔も変わりなく。冴え渡るような青白さで。

本格的な冬の訪れを、告げていた。

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