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月と太陽
​月と太陽

 1964年、昼下がりの黒磯駅。赤髪の少年は差し出された手を前に、一人、戸惑っていた。

「僕はEF65!君は交流機の子でしょ?」

目の前の青髪の少年は、ED75の様子は気にも留めないで、ニコニコして言う。

「そう…だけど?」

「仲良くしてくれると嬉しいな!これからよろしくね!」

EF65は一歩前に出ると、自分からED75の手をギュッと掴んで、上下に振った。

ED75は、少々混乱しながらも、

「…いいけど。」

と答えていたのだった。

 

 黒磯駅は交直流の切り替え駅である。直流用機関車に牽引されてきた貨車や客車は皆、この駅で交流用機関車に受け渡される。どうやら、EF65は区間赴任の挨拶回りで、先輩機関車に連れられてやって来たようだった。

「先輩がうるさくて嫌になるよ、」

当の先輩が近くにいないのをいいことに、EF65はそんな言葉をこぼした。

「…おまえは汎用機になるんだからって?」

訊いてみる。自分は何度も言われた言葉だ。

「そう!おまえは自覚が足りないって!」

EF65の顔が輝いた。先ほどの質問は的を射ていたらしい。

「研修もキツいし、もう大変!」

「…君の方も、そうなんだ。」

もしかしたら。もしかして、EF65になら。自分の抱えているものを、話すことができるかもしれない。

「あのさ…僕…」

ED75が意を決して口を開いたとき、ちょうどホーム端の階段から背の高い青年が下りてきて、こちらへ歩いてきた。

「EF65!」

「なにさ、EF58」

EF65はちょっと口を尖らせた。

「ここにいたのか、ED75とは仲良くなれたかい?」

「すっごく仲良しだよ!」

素早く答えると、EF65はベンチに腰かけたまま、足をブラブラと遊ばせた。

「ねえEF58、今日のおやつは何?僕、赤福がいいなあ。」

「僕、研修頑張っているでしょう?」

「…全く、うちの次期エース様はワガママだなあ。」

EF58は、苦笑いで答える。

「そろそろ、我々は行かないと。」

「ええ…。」

不満げなEF65の頭を小突いて立ち上がらせると、EF58はED75を眺めた。

「立派な交流機になってくれよ。」

 

「君は私たちを駆逐していくのだから」

「君と僕はライバルだね!」

「立派な交流機になってくれよ」

頭の中を、言葉が渦巻いては消え、渦巻いてはまた消えた。

みんな、勝手なことを言う。平気な顔をして、勝手な期待をED75に押し付けていく。

やめてくれ。

僕は。

そんなにたいした器じゃないのに。

頭を抱える。言葉はなおも浮いて沈んでまた浮いて、グサグサと心を刺した。

強くならなくては。みんなが求める僕にならなくては。

他の僕は要らない。

迷いを振り切るように頭を振ると、もう一度、自分に言い聞かせる。

「そう、要らないんだ。」

 

この日、僕は初めて自分に嘘をついた。

​きょうだいのはなし(上)

いつだったか、先輩のED71に、こんなことを言われたことがある。

「ED75、君はできる子なのだから」

「さっさと私を淘汰したまえよ。」

総じて「できる子」「優秀な子」というのが自分に用意されていたハコで、ずっとそれに合わせようと必死だった。

でも。だけど。

ハコに入れられない「ジブン」は。どこに仕舞い込めばよいのだろうか。

 

「…ED75。聞いているのか?」

EF81に書類で軽くはたかれて、ED75は物憂げに顔を上げた。

「聞いているよ。同形式の700番台が入ってくるって話でしょ。」

「…聞いているのなら、もうちょっと態度に出してほしいんだが。俺が困る。」

EF81は少しだけ困ったような顔で、書類を持ち直した。

「おまえの弟にあたる子だぞ。明日からとりあえず、同居してもらうことになると思う。面倒をみてやってほしい。」

「…言われなくても、世話はするよ。僕が面倒見いいの、知ってるでしょ?」

ヒラヒラと手を振ると、EF81はため息をついた。

 

やってきた弟の700番台は、行儀が良くて手のかからない子だった。

あらかた業務の説明を終え、居室に連れて行くと、長椅子の隅でいつまでも書類を繰っている。与えた食事はなんでも美味しい美味しいと平らげ、夜は早々と布団にくるまって寝てしまう。ちょっと拍子抜けするくらい、問題もなにも起こさない良い子。

(自分の試験走行時代も、こんな感じだったか…?今度ED71に会ったら訊いてみるか…)

700番台のあどけない寝顔を眺めながら、ED75は過去に想いをはせた。

(しかし、どこまでも僕に似ているな…同形式ってこんなものなのか…?)

自分と同色の赤い髪に手を伸ばす。幼い故か、髪は絹糸のように細く滑らかだった。

「…僕になんか、似なくていいんだよ。」

零れ落ちた本音にドキリとして。ED75は慌てて電灯の紐に手を伸ばした。

カチリ。

音を立てて、部屋の明かりが消えた。

 

日に日に苛々とした感情が積もっていく。

700番台が来るまでは、自室は唯一落ち着ける場所だった。

…誰にも、感情を取り繕うことをしなくてよいから。

今はどうだ。視界の端々に赤い髪がちらついて、心が休まる暇がない。

分かっている、弟には何の罪もない。

それでも、こいつさえいなければと思ってしまう。

「…おい。顔色が悪いぞ。大丈夫なのか?」

EF81に心配されたところを見ると、相当疲れた顔をしていたらしい。

「700番台、そんなに手がかかる子なのか…?そうは見えなかったが…。」

「あの子はいい子だよ、僕の顔色が悪いのは別の問題。」

そう、とてもいい子なのに。

EF81は、しばし探るようにこちらを見ていたが、急に手を伸ばして書類をかっさらった。

「おまえもう帰れ。700番台にはこちらから言っておくから。帰って寝てろ。」

「……」

「ほんとに余裕ないんだな。」

EF81は呆れたような顔をして、行ってしまった。

 

あたまが重い。

なんでわざわざ飛び込んでくるんだ。

ただでさえ体のあちこちが痛むというのに、面倒な書類まで増えた。

フラフラと部屋に戻ると、700番台が驚いて近寄ってきた。

「兄さん⁈血だらけじゃない、大丈夫…」

「大丈夫、だから。」

700番台を押しのけて、洗面所に駆け込んだ。

洗っても洗っても、手の赤が落ちない。

「なんでだ…」

眩暈を覚えて、ED75はしゃがみこんだ。

「兄さん…」

「来ないで」

君がいると、僕はジブンを隠すことが出来ないから。

だから、だから、…

「大丈夫じゃないでしょう、兄さん。」

気が付くと、小さな体に優しく抱きしめられていた。

「兄さんいつもいつも我慢しているじゃない。」

「もう我慢しなくていいよ。」

「なんでも言って。僕、兄さんのことなら何でも分かるから。」

弟は、ニコリと微笑んだ。

「ね、兄さん。」

嘘つきの青年は、こうして弟に堕ちた。

きょうだいのはなし(上)
髪切り
髪切り

 随分やりたがるものだから、僕は兄に髪を切らせている。僕の髪が頃合いに伸びてくると、兄はいそいそと理容道具を持ってやって来るのだ。

「奇麗な髪だね、」

と兄は僕の髪を梳きながら、実に楽しそうに言う。彼は自分以外の誰にも、僕の髪に触れることを許そうとしない。…本人は、知り合いの理容室に行っているらしいのだが。

「普通でしょ、」

と僕は兄に言う。

「何が面白いのさ。」

「この僕が手入れしているのだから、君の髪が平凡なはずがないのさ。」

万事に付け兄はこの調子で、僕の面倒を見たがる。

僕を自分の所有物だと思っているらしい。

彼は存在理由を求めて、僕にべったりと依存しているのだ。

兄に気付かれないように、僕はひっそりとため息を吐く。

「何か言った?」

相も変わらず楽しそうに、兄は鋏を動かしている。

「なんでもないよ、兄さん。」

楽しそうな兄を見て安心する僕も、結局のところ兄に依存しているのである。

2人だけの閉じた世界で、僕らはいつだって平行線だ。

きょうだいのはなし(下)
きょうだいのはなし(下)

「700番台」

「どうしたのEF81?」

700番台が書類を抱えて通りかかるのを見て、EF81はつい呼び止めてしまった。

「おまえ、最近兄貴との関係は大丈夫なのか?」

「大丈夫って?どういうこと?」

700番台は大きな目をこちらに向けて、訝しげに訊いた。

「僕は兄さんと仲いいよ。別に喧嘩もしてないし。」

「そうじゃなくて。ED75が構ってくるのは…おまえにとって重くないのか?」

「おまえの方がまだ話は通じそうだから言うんだが」

「大丈夫だよ」

700番台は素早く答えた。

「心配するようなことは何もないよ。」

「…正直、俺はおまえのことが心配だよ。最近あいつはおまえにべったりだ、おまえが潰れてしまわないか、それが心配なんだ。」

EF81はイライラしたように言葉を重ねた。なおも続けようとした彼の文句を遮って、700番台は薄く笑って言った。

「君が心配してくれるのはありがたいけど…」

「でもね、」

「兄さんには僕が必要なんだ。」

EF81は息を飲んだ。

「……、おまえ…」

「何をやっているの?」

背後から声がした。700番台の顔が翳るのを見て、振り返る。

ED75がそこに立っていた。

「……」

「何をやっているの?」

「なんでもな…」

「おまえのことを話していたんだよ。」

EF81はため息を吐いて言った。

「僕のこと?」

「なあ、ED75…」

二の句が継げなかったのは、700番台が驚くほど強く

「やめて。」

と言ったからだ。

(ああ)

(根が深いのは…むしろこちらの方だったか)

「本当になんでもないから。兄さん、行こう。」

700番台はED75の背中を押すと、少し悲しげな目をEF81に向けて、行ってしまった。

 

「ほんとは何があったの?」

「……」

700番台はED75から目を逸らした。

「分かったよ。君が言えないなら別にいい。」

「兄さん…」

ED75は700番台の腕を取ると、引き寄せて抱きしめた。

「僕は君がいないとダメなんだ」

「君がいなくならないか、それが不安でたまらない」

「700番台、いなくならないよね?そう言って」

(…このひとには、僕が必要だ)

(だからごめん、EF81)

「大丈夫だよ兄さん、僕はここにいるから。」

「…そう?」

それを聞くとED75は、嬉しそうに笑った。

「僕を幸せにできるのは君だけだ」

「……」

「君を幸せにできるのも、僕だけだといいな」

「……」

(なんて甘い地獄だろう)

(それでも僕はこの地獄から抜け出せない)

(このひとを独りにできない)

「…そうだね。」

 

「…?」

掲示板の前がざわついている。ふらふらと近付いた700番台の顔は、そこに掲げられている告知を見た途端、真っ青になった。

「おい、しっかりしろ⁈」

特急いなほに揺さぶられる。

『…ED75形700番台のうち、以下の車両を青函隧道専用に改造工事し、ED79形に改番する。それに伴い、現在700番台の車両を管轄している者は、函館機関区青函派出所に異動とし、ED79形の管轄に携わるものとする。…』

なんて、簡潔な告知。

頭では、理解できる。

青函隧道を誰が担当するのかは、いつだったか話題に上っていたし。

でも。

でも、でも、でも。

「700番台⁈」

気が付いたら、告知の紙がグシャグシャになって手の中にあった。

「…だめ…兄さんに、これは見せられない…」

(僕は何をやっているんだ)

(こんなことをしたところで、何も変わりっこないのに)

「もういいよ、700番台」

「EF81…」

「おまえは独立しろ」

「今のままの関係はおまえにとっても、ED75にとっても良くない」

「700番台、おまえ、本当は分かっているんだろう?」

「僕は…」

「この紙はもう1枚貰って、貼り直しておくから。」

EF81は、ぐしゃぐしゃになった紙を取り上げると、700番台の肩をつかんで、部屋の方に押しやった。

「おまえはとりあえず落ち着け。…難しいかもしれないが。」

 

バタン、と大きな音がして、ED75が帰ってきた。

「700番台、」

「あの告知は一体どういうこと?」

「…僕が、五稜郭へ異動になるっていう通告だけど…」

「それで?君はそれを呑んだの?」

一瞬の沈黙。

「…承諾したよ。」

ED75は息をのんだ。

「勝手に決められたのに、なぜ受け入れた?君は僕の下にいることが幸せじゃなかったのか?」

「……」

「兄さん、僕は兄さんの下でなくてもやっていけるよ。」

 

君の首を絞める夢を見た。

…夢だ。

これは夢だ、だって。

僕が、君の首を絞めるなんてことが。

あるはずがない。

 

ED75はよろよろと手を放して、数歩後ずさった。

700番台は、コホコホと苦しげに咳をしていたが、喉を1回だけ、確かめるようにさすると、急に長椅子から体を起こして、ED75の方を見た。

「兄さん」

「大丈夫だよ兄さん」

「僕は大丈夫」

「でも、もうこういうことは終わりにしよう。」

700番台は、凍り付いたように立っているED75に近付いて、悲しそうに耳に囁き込んだ。

「僕、行くね。」

 

辺りはもうすっかり暗くなっていて、防風林の木々の上に、満天の星空が広がっていた。

…こんなときでさえ、故郷の夜空は美しい。

息を吐く。白い煙が一筋、昏い天上へ昇っていった。

「僕は兄さんのことが好きだよ。愛してる。」

それでもだめだ。いや、だからこそだめだ。

振り返りかけて、少しだけ止まって。今度はキッパリと頭を前に向けて。

彼は秋田を後にした。

臨時はまなす秋田行き
臨時はまなす秋田行き

「それじゃ、僕は貨物の方に戻るから。兄さん、はまなすをよろしくね。」

「ああ、任せろ」

ED75はにこやかにED79(弟)の去り際を見送った。ED79の姿が消えた後もしばらくはそのままでいて、信号で彼が隣の閉塞区間を抜けたのを確認してから、やっとこちらに向き直った。

「まさか、札幌⇔秋田の臨時便ができるなんて。」

先ほどまでの笑みはすっかり消え失せ、はまなすを見る目は冷たい。

「そのセリフはこちらも同じことだがな。」

はまなすは呆れたように手を振った。

「全く、お前が私を嫌っているのは百も承知だが、仕事は全うしろよ。」

「仕事に影響なんか出すか、ED79が心配するだろ。」

はまなすは笑った。

「何がおかしい。」

「いや、お前たち兄弟は実に面白い。」

クスクス笑いながら、はまなすは付け加えた。

「外見は瓜二つだが、お前は実に気持ち悪い男だな。」

「ご指摘頂き光栄です、とでも言えばいいのか。」

ED75は苦々しい顔ではまなすを眺める。

「僕は君が嫌いだよ。」

「気が合うな、私もだ。」

はまなすは素知らぬ顔で、右手を差し出す。

「それでもお前は私を連れて行ってくれるんだろう?」

沈黙。ED75は喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、乱暴に手を取った。

「…本当に嫌いだ、大嫌いだよ。」

はまなすは再び笑った。

「ふふ」

「行こうか。」

マヨイガ

 俺は全く覚えていないのだけれども、幼い日、祖父母の家へ帰省する際に、秋田駅の構内で迷子になったことがあるのだという。東京駅などと比較してしまえば単純な構造のあの駅で、どうやったら迷えるのか不思議でたまらないけれども、母親に言わせてみれば「すごく大変だった」らしい。当時の俺は電車がずいぶん好きだったので、ふらふらと新潟や青森行きの特急に乗り込んだのではないかと、気が気ではなかったそうだ。

 とはいえ、1時間足らずで見つかった。なぜか、改札口のすぐそばで。保護された俺は、「赤い髪のお兄さんが道を教えてくれた」などと訳の分からないことを話し、一同を混乱させた。疲れた従妹が「なまはげにでも助けてもらったんじゃない」と呟いたので、俺は「なまはげに助けられた」ことになった。釈然としないが、世の中そういうことにしておいた方がいいことは山ほどある。ともかく、俺はすぐにその事件を忘れ、電車からもいったん離れてすくすくと成長し、一人旅をするようになって今度は鉄道にハマり直した。

 

 数年ぶりに秋田駅に降り立ったのは、空き家になった祖父母の家の手入れをするためだ。せっかくだからと在来線を使って10時間、到着したのは終電で、辺りはすっかり闇の中。階段を上り、連絡通路を通って改札口へと急いだ。

…はずだったのだが。

こんなに、通路は長かっただろうか。

よくよく考えると、県の中央駅で、営業時間内にも関わらずこんなに薄暗いのはおかしい。幾人もが電車から降りて行ったはずなのに、周りに人がいないのも、それどころか駅員の姿すら見えないのも。

自然、早足になった。

腹の底から、得体のしれない不安がよじ登ってきて、視界を歪ませた。

 

出口に着いたときは、心底ほっとした。

切符を取り出して、改札機に滑り込ませる。

誰もいない空間に、機械のエラー音が響いた。

 

…心が折れた俺は、誰かいることを祈りながら、窓口に顔を突っ込んだ。

事務室の中には、何人かひとがいて、こちらを見て心底驚いたような表情を浮かべていた。

「お兄さん、もしかしてさっきの電車で着いたお客さん?」

一番手前にいた男性が、目をぱちくりさせながら言った。

「参ったなあ、たまにこういうことがあるんだよなあ。」

そして、奥にいた男女を呼んだ。

「どうするよ?」

「どうするもこうするもないよ、一晩泊まっていった方がいい。

下手に迷うと、辿り着けないから。」

とても、不穏な空気である。薄々感じてはいたが、ここはどうやら世間一般でいう秋田駅ではないらしい。目の前のひとたちは一体何者なのだ。そして俺は無事帰りつけるのか。

「大丈夫ですよ。明日には元に戻れますから。」

お姉さんの言葉が救いである。よく分からないうちに俺は椅子に座らされ、目の前には酒瓶が並べられていた。「まあ困ったときは飲むに限る」という一言と共に、酒が杯に注がれる。

「深くは考えない方がいいよ、それが一番だ。」

目の前の青年が、徳利を振って、からからと笑った。

「それにしても大きくなったね、まったくあのときの坊主が酒を飲めるようになるなんて。」

思わず、見返した。目の覚めるような、赤い髪。なまはげに、助けられた…

青年は、いたずらっぽそうに目を細めて、楽しそうに、また笑った。

 

気が付くと、秋田駅の改札口の前に立っていた。

始発電車の利用客が、怪訝な視線を送ってくるので、俺は慌てて脇にどいた。

…一体、なんだったというのだろう。

ふと違和感を覚えて、ポケットを探ってみると、無地の白い猪口が1つ、転がり出てきた。

どこからともなく笑いがこみ上げてきた。俺はそれをごまかすために、切符を取り出すと、足早に改札機に歩み寄って、滑り込ませた。

なにごともなかったかのように扉が開いて、切符が吐き出される。

俺はそれを手に取ると、次の電車に乗り込むために、ホームへと歩き出した。

祖父母の家に着いたら、仏間の掃除をしよう。

そうして今夜は、彼らと一緒に酒を飲もう。

そう考えながら。

マヨイガ
秋田の赤1
秋田の赤 1

「今日も一日、疲れましたねえ…」

最後の客が改札口を通り抜けるのを見送って、E6系こまちは大きく伸びをした。時計の針はぐるりと回ってもう真夜中を指している。始発まであと6時間、今は早く寝たい。

駅構内に戻ると、柱の影からひょっこり特急つがるが顔を出した。

「お疲れこまちーーー」

「お疲れさまです!」

挨拶をして、通り過ぎる。

「こまちお疲れー」

「おやつ食べる?疲れたでしょ?」

485系とE653系の新旧いなほコンビが、声を掛けてきた。もらえる食べ物を断る理由などないので、ありがたく受け取って、早速頬張りながら、通路をまた進む。跨線橋を渡れば、自室はもうすぐだ。

 

トン、トン、トン

(階段を上がる音…?誰だ…?)

その疑問は、階段を上ってきた赤い髪ですぐに氷解した。

電気機関車のED75だった。

一升瓶を抱えている。酒もいける口のこまちの目は、ラベルを見た途端にくぎ付けになった。

(あれは…滅多に市場に出ないという幻の酒…?)

「ED75さん!」

呼び止める。ED75はちょっと眠そうな目を上げて、笑った。

「…ん、こまち。お疲れさま」

「そのお酒…」

「そう。ちょっとばかり無理を言ってね。手に入れた。」

ED75は酒瓶を抱え直した。

「明日の飲み会で呑ませて頂けますか?」

どんな味がするのだろう、こまちは意気込んで訊ねたが、

「駄目かなあ」

「え⁈」

「これは今から弟と呑んじゃうから、ごめんね?」

なんでもないような、その言葉の調子に何かが引っ掛かって。

(“今から弟と呑んじゃうから”…?)

「あれ…貨物は今から作業が入っていたのでは…?」

「今日は僕、非番。急だったけど変わってもらった。」

おかしい。ED75は普段、お酒を出し惜しみしたり、急に予定を入れたりするひとではない。特に、休むときは数か月も前から几帳面に予定表を作って、貼りだしていく。

「あの…何があったのか、伺ってもよろしいですか?」

先程まで静かに笑っていたED75は、こまちがその言葉を口にした途端、目を逸らした。

「本当に、何が、」

 

「はい、こまち、そこまで。」

485系いなほに肩を叩かれて、凍り付いた場の空気が少し緩んだ。

「いなほ?」

「…こまちはちょっと待っててね?ED75、早く行け」

赤い髪の機関車は、怪訝そうにいなほを見上げた。

「もう時間があまりないんだろう?ここはいいから、おまえは行けって。」

「……恩に着る。」

「ED79によろしくな?」

最後にニッコリと微笑んで、彼は足早に去っていった。

 

「…ED79ってJR北の?」

確か、青函を結ぶ機関車で。いつだったか、E5系から話を聞いたことがあるような。

「そう。あいつの弟だ。」

いなほはちょっと硬い表情で、腕組みをした。

「今月末に北海道新幹線が開業するだろう?新幹線に合わせて、青函トンネル内は電圧が上がる。その影響で、現在青函を運行している列車のほぼ全てが撤退する。ED79も今月いっぱいで引退、車籍抹消で廃車だ。だから行かせた。」

「でも、一両くらいは保存されますよね?そんなに焦る必要あります?」

昨年引退した特急北斗星は、無事保存が決まっていたはずだが。

「いや、」

いなほは頭を振った。

「全廃だと。」

秋田の赤3
秋田の赤3

 遠い夜空に一筋、星が流れるのを見た。あと何度、拝むことができる光景だろう。

(まあ、数えれば分かるけどね。)

ED79はため息を飲み込んで、傍らにいる兄に呼び掛けた。

「…兄さん?」

返事はない。もう一度、今度は名前を呼んで、それでも答えが返ってこないのを確認する。

ED79はやれやれと立ち上がって、ED75をおぶった。

故郷の満天の星空を見上げる。こちらは、今日を限りに見ることはない。

思えば30年前、一人この地を後にしたとき、あの日に見た夜空もこんな感じだった。

(さよならは言いたくないけれど…)

鼻の奥がツンと痛くなるのに気が付かないふりをして、ED79は秋田駅までを急いだ。

 

「…珍しいこともあるもんだ、コイツの方が先に潰れるなんて。」

深夜の貨物控室には、EF81が一人残って番をしていた。ED75を部屋まで運んだあと、EF81はED79の方をちらっと見て、隅の方に置いてあった酒瓶を持ち上げた。

「ED75が持ってったのほど良くないけどな、飲んでくだろ?」

中身が半分ほど消えたところで、ED79は話を切り出した。

「EF81…」

「分かったよ、しゃーないな。」

EF81は、ED79の顔も見ずに即答して、空になった猪口に酒を注いだ。

「まだ僕最後まで言ってないんだけど?」

「どうせ珍しく潰れちまった誰かさんのことだろーが。」

仏頂面で、縁から啜る。

「…当たり。すごいね、君って。」

「何年おまえらと付き合ってると思ってるんだ。おまえが頼むと言ったら一つしかないだろ?」

空になった猪口を振る。

「…おまえは、もっとなんだって俺に頼んで良かったんだ。なんで今になって言うんだよ。」

「…悪いね。」

「おまえは全然悪くねえんだよ。」

ED79は、ちょっと悲しそうに笑った。

「…頼めるのはEF81しかいないから。」

「謝るなよ、お人よしのEF81さんが頼みは聞いてやるっていってんだからな。」

「…ありがとう。」

「どういたしまして?」

EF81は、再び瓶を取ると、ED79の杯に酒を注ぎこんだ。

「この瓶は空にして行けよ?俺からの餞別だ。」

「それだけでいいの?夜はまだまだこれからだよ?」

「お、言うようになったな?」

EF81は隣にある瓶にも手を伸ばした。

「まあ、朝まで飲んでけ。あいつが起きる頃には、空になってるだろ。」

黒磯駅で君を刺す
黒磯駅で君を刺す

梅雨入り間近の黒磯の空は、今日も雲が重く立ち込めている。E233系3000番台は、伸びをしながら駅のホームに降り立った。南国伊豆の地を後にしたのは約4時間前、首都圏在来線としては走行距離が長い車両なだけに、疲労が体のあちこちに蓄積している。

(今日も一通り線路は巡ったし、後はのんびりしよう…。)

向かいの東北本線ホームには、一眼レフを持った鉄道ファンが幾人かいた。遠くから細切れに聞こえてくる会話から察するに、どうやら何某かの甲種輸送を撮りに来たらしい。

「今日の甲種輸送はどこの車両だっけな…」

「14系客車だよ。」

独り言のつもりだった呟きに返事があり、3000番台はビクリと肩を震わせた。そっと振り返ると、ベンチの1つにED75形電気機関車が腰掛けて、物憂げな眼差しを線路の方へ送っていた。

「ED75さん、今日は黒磯駅までの配当なんですね。…14系客車?」

「JR北の旧はまなす車両。大井川鐵道へ譲渡されるそうだけど。」

急行はまなすと言えば、この3月に引退した列車である。確か、青森~札幌間を走っていた

はず。大井川鐵道は旧式列車を集めている会社なので、役目を終えた客車が譲渡されるのは、

よく聞く話だった。

「お知合いですか?」

「まあね。」

瞳が翳る。既知の関係ではあるらしい。

ああそうか、と一人合点して、3000番台はゆっくりとその場を後にした。

旧知の車両の輸送を、見送りに来たのだろう、そこに自分が入るのは野暮というものだ。

 

…もっとも、そんな3000番台の気遣いは、全然的外れもいいところだったのだけれど。

 

3000番台が去った後も、ED75はベンチに腰かけて、じっと線路を見つめていた。

にわかに、向かいのホームの人混みがざわめいた。

EH500形に牽かれて、ゆっくりと14系客車が通り過ぎる。

列車の後を追うように人影が1つ、ホームに現れた。

誰かなんて、目をやらなくても分かる。

そういうことをするヤツだと、知っているからだ。

相手は視界の端から軽やかに近付くと、ED75の顔を覗き込んだ。

「久しいなED75。息災か?」

「……だよな。アンタはそういうひとだ。」

ED75は向き直ると、ため息を吐きながら視線を上げた。

(……!)

髪が14系客車に共通の青色に変わっている。

「驚いたか?引退して名を失った客車は皆、この髪色に戻るそうだ。」

「…別に。」

 嘘だ。

 こいつの前だから何も言わないだけで。

 自分の動揺は、顔に出なかっただろうか。

 ああいやだ、その青色を見続けるのは。

ED79がいなくなったことを…弟の死を、二重に突き付けられたような気がして。

 

彼女はED75の前を通り過ぎると、ベンチの反対側の端に軽く腰を掛けた。

そのまま、何も言わずにブラブラと足を遊ばせている。

「…何をしに来たんだ。」

「ちょうどいい機会でもあったし、最後に一度顔を拝みたかったんだ。」

…一体全体、何が「ちょうどいい機会」なのだろう。今の今まで、ずっと関係性は最悪だったというのに。

「これで最後だから言うがな、」

と彼女は言った。

「おまえは私を嫌っているが、私はそれほどおまえが嫌いではなかった。」

「…そう。」

「おまえはいつだって剥き出しの感情を私にぶつけてくるからな、どちらかと言えば分かりやすくて私は楽しかったぞ。」

「…そう。」

「それだけ言いたかったんだ、会えてよかった。」

「……、……、」

言葉が出てこない。もう限界だった。

いつの間にか握っていたナイフを、思いっきり突き立てた。彼女の手から狙いが外れないように、自分の手で押さえつけて…自分の手ごと、刺した。

 

どくどくと、脈を打って血が流れ出す。

急行はまなすは無言で右手を見つめると、ED75の手を掴んでナイフを手から引き抜いた。

「相変わらずだな、おまえは。」

ED75は何も言わない。

「…まあ、こんなことになるんじゃないかとは思っていたが。」

手を上げて、甲を舐める。口いっぱいに鉄の味が広がった。

「ED79から伝言だ、酒は飲み過ぎないこと。少しずつでいいから、ほかのひとに思っていることを話せるようになってほしい。たぶんEF81は聞いてくれるはず。あとは…まあ、言わなくても分かるか。」

立ち上がる。

「…じゃあな。私は行く。」

 

ぽつぽつと、天から染み出すようにして雨が降ってきた。

雨音を聞きながら、ED75はベンチにゆっくり寝転がった。とめどなく流れる涙が、手の甲から染み出す血と混じりあってホームに小さな池を作った。

「ああ、やっぱり僕は君が嫌いだよ。」

春は遠雷を連れて
春は遠雷を連れて

君を連れて行った春がまた、巡ってくる。

 

初めに鏡を見るのが嫌になった。

次に寝ることが怖くなった。

…目を閉じれば必ず、君の夢を見るから。

甘美な幻想に溺れて幾度も君を失うくらいなら、いっそ、夢など見ない方がいい。

「ED75」

眠りと覚醒の間で漂っていたED75は、EF81の声がして半身を起こした。

きちんと整理された部屋に、異物のように酒瓶が散らばっている。

EF81は呆れたように腕を組んで立っていたが、ため息を吐くと、瓶を拾い上げた。

「お前また、酒で睡眠薬を飲んだな。」

目をそらす。

「そうでもしないと効かないし。」

「それは効いているとは言わねえ。お前は酒に逃げているだけだろうが。」

「…かもね。」

頬杖をつく。酒は大方抜けているが頭が僅かに重たい。

まだ意識に薄くかかっている霧が、晴れるのが怖い。

無意識に手が空いていない瓶を探した。

「おい。」

「今日は僕、非番でしょ。」

「そういう問題じゃない。」

EF81はずかずかと部屋に入ってきて、ペットボトルを乱暴に文机の上に置いた。

「水を飲め、水を。」

「……分かったよ。」

EF81は、ED75が容器を空にするまで、ずっとふくれっ面でこちらを見ていた。

「お前のせいでとんだ迷惑を被ってるんだ。」

彼はぷい、とそっぽを向いた。

「俺はデリカシーなんて無いから全部言っちまうぞ。秋田の連中も仙台の連中も、

 お前のことを心配している。E6は泣きついてきたしE5はわざわざ田端まで来た。

 全くあいつら、俺をなんだと思っているんだ。」

「悪いね。」

「悪い。すごく悪い。」

「仕事はきちんとこなしているよ?」

「仕事はやってるからなおさら心配なんだろうが。」

EF81は半ば苛立ちのこもった表情で、もう一本ペットボトルを机に叩きつけた。

「さっさとそれ飲んでもう一度寝ろ。今度は素面になって起きろよ。」

 

EF81が去ったあと、ED75はしばらくぼんやりと空を見つめていたが、ため息をついて

水に手を伸ばした。

「そうだね、君の言うことはいつだって正しいよ。」

一気に飲み干して、寝台にもたれかかる。

「ただ…正しいだけじゃ、どうにもならないこともあるんだ。」

​大宮駅に貴方は居ない
大宮駅に貴方は居ない

あの人に、ずっと僕は憧れていた。

視界の端にチラリと赤髪が映ったような気がして、E5は勢いよく振り返った。いつもの仙台駅13番ホームが広がっているばかりで、小さな期待は脆くも砕け散った。

(そうだよね。ここは地上4Fだもの。)

危急の用事が無い限り、新幹線ホームに在来線勢がやって来ることなど滅多に無いのだ。

ましてや、貨物が来るなど見たことが無い。

(今度こそ、会えると思ったのに。これからまた東京に戻らなくちゃいけない…)

ため息が口からこぼれる。

(一体いつになったら、戻ってきてくれるんだ。)

(仙台にも、大宮にもずっといないじゃないか。)

(ED75さん。)

 

ED75形は国鉄形、旧世代の電気機関車である。かつては奥羽本線、羽越本線を中心とする

東北地方で広く運用されていたが、世代交代が進み、今は秋田地区と仙台地区にて稼働して

いる。ただし、ED75当人は弟のED79形電気機関車が北海道新幹線と入れ替わりに引退、廃車となって以来病み、現在は故郷の秋田に引きこもっているということだった。以前は沿線地域の他、保存車が確保されている小樽や大宮にもよく出没していたが、最近はめっきりその噂を聞かない。

 

E5が初めてED75に会ったのも、大宮の鉄道博物館だった。それはE5がデビューする前、

試運転やら研修やらで毎日が忙しかったときのことだ。たまたまその日は大宮で研修があり、E5は窮屈な時間の合間を縫っては館内をウロウロしていた。485系の横を通り過ぎたときに、呼び止められたのだ。

「もしかして、新しくデビューするE5系新幹線か?」

かの人は、真っ赤な電気機関車の横に立って、実に面白いと言わんばかりの顔でこちらを眺めていた。機関車と同じ色の髪が、どこからか吹いてきた風にそよいだ。

「いい色だな。緑は東北新幹線の伝統色だ。」

「ありがとうございます。」

思いがけず、泣きそうになってE5は目を逸らした。ED75はちょっと慌てたような声で、追い打ちを掛けてくる。

「嫌味じゃないぞ?単純にいい色だと思ったから言ったんだ。」

「…違うんです、ただ嬉しくて。」

デザインがだいぶ思い切っているとか、ボーカロイドの某に似ているだとか、コイツに東北新幹線のフラグシップを任せて大丈夫なのかとか、そういう一切を抜きにして、目の前のひとは自分を評価してくれたのだ。

以来、E5はとことんED75に懐いた。ED75の本拠地の1つである仙台は新幹線の主要駅でも

あるが、貨物と新幹線は時間が合わないのか、ほとんど会うことはなかった。対して、当時、ED75は大宮によく出没していたため、暇さえあればE5も大宮にせっせと足を運んだ。頻繁に出てくる相手に対しED75は特に何も言わず、青函連絡船時代の話やら貨物輸送の話やらをしてくれた。E5がデビューした後も、それは変わらず続いた。

関係が変わったのは、北海道新幹線の開業が近付いてからのことだ。これまでE5が担ってきた業務の一部がH5に委託されるために、手続きやら研修やらで随分忙しくなった。

そして、気が付いた時にはED75は大宮に現れなくなっていた。

 

盛岡駅で待っていると、E6が奥羽本線本面から滑り込んできた。連結作業の開始と共に、E6系こまちは軽やかにホームへ降り立った。

「やあE5、今日も元気がないね。」

開口一番これである。反論する元気も無いので、ちょっと笑って肩をすくめてみせる。

「そういう君は元気そうだね、こまち。」

「昨日もクマを撥ねちゃった。つがるには心配されたし、いなほには呆れられたし、ED75

 さんには怒られた。」

「…またかよ。」

胸の奥がチクリと痛む。そう、E6の地元にはED75がいるのだ。急に黙り込んだE5には構いなしに、E6は腹立たしげにホームを何度か蹴った。

「昨日はクマも乗客も無事だったんだよ?怒られる筋合い無いよね?」

「…。」

「ここは『クマすげえ』って突っ込むところだからね?」

それでもE5が返事しないので、E6は心配げにこちらを覗き込んできた。

「ねえE5、ホントに最近どうしたのさ。」

「なんでもないよ、ちょっとお前が羨ましいだけ。」

そう、こまちは何も悪くない。それなのに、妬ましいと、あまつさえ憎らしいと思ってしまう自分が悪いのだ。

「拗ねないでよ、僕だってED75さんが病んでるのは気にしてるんだからさ。」

思わず振り返る。

「お前、なんで…?」

「分かるさ、ずっと君と一緒に走ってれば。あの人、最近ずっと非番の日は薬と酒飲んで無理

 矢理寝てるんだよ。見てて痛々しいよ。昨日は怒られたけど、前のED75さんみたいで正直

 ちょっと嬉しかったよ。」

E6は眦に涙を浮かべていた。

「泣くなよ…僕が悪かったよ、八つ当たりしてごめんな。」

「E5のボンクラ野郎が!」

「だからごめんて。」

ホームにアナウンスが流れ、連結作業が終わったことを告げた。

「早く乗らないとマズいよ、こまち。」

「うるさい。…E5、そのうち大宮にED75さんを送るから、よろしくね。」

「何言ってるのこまち?!」

「貸し一つ、だからね?」

今度こそ驚愕して後ずさるE5を見て、E6はやっと、いたずらっぽく笑った。

「君の考えてることなんて全てまるっとお見通しだぜ。」

 

深夜に一人、E5は大宮の鉄道博物館1Fフロアを歩いていた。時折ゴオと音を立てて、隣の線路をEH500が通り過ぎて行く。週に1度は、申請書を出して鉄道博物館に来ることにしている。同僚たちには勉強熱心なヤツだと思われている、らしい(E6には色々見透かされているようだが)。確かに資料室には行くし、機器の構造のメモを取ったりもするけれど、本当の

目的はここ、1Fの中央にある。

「やっぱりいない。」

国鉄485系ひばりの左側に、主のいないED75形機関車が停まっている。今のヘッドマークは基本の「あけぼの」だった。

E5はその横にそろそろと、車両に触れないように気を付けて、腰を下ろした。行儀が悪いとは分かっている。ただ、少しだけ、来るはずのないひとを待っていたかった。

 

そうこうしているうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。聞こえるはずのない足音を

聞いたような気がして、E5はハッと目を覚ました。頭を慎重に上げて、耳を澄ます。

コツン、コツン、コツン

北国の滑り止めの効いた、靴底の厚いブーツの音だ。

足音は次第に近付いてくると、ちょうどE5の反対側の側面まで来て止まった。

「お前がいるから、」

息を飲んだ。ED75だった。彼はこちらには全く気が付いていない様子で、車体に乱暴に手をついた。

「僕はいつまでたっても死ねないんだ。」

 

痛いほどの沈黙が流れた。長い長い静寂のあと、ED75はため息をついて、

「お前に当たり散らしても何にもならないのにな。」

とつぶやいた。そして、たぶん、彼はそのまま踵を返して戻ろうとしたのだと思う。

ED75がそのまま戻ることはなかった。何故なら、ちょうどそのとき、固まっていたE5の

ポケットからペンが転がり落ちて、非情なほど大きな音を立てたからだ。

(…ああ、聞いてしまったことがバレてしまう。)

「……。」

「…E5だな?」

(なんでこのひとは向こう側にいるままで分かるんだ。)

「…そうです…。」

E5はのろのろと機関車の反対側に回り込んだ。

「お久し振りです…ED75さん。」

ああ、やつれたな、というのが第一印象だった。頬から顎にかけての輪郭が、以前にも増して鋭角になっている。真っ赤な髪も、全体的にくすんで元気がない。

「こんなときに会いたくはなかったな、E5。」

「…ごめんなさい。」

「いいさ。事故みたいなものだ。」

ED75は目を合わせようとしなかった。それでも、その眼が暗く沈んでいるのは分かった。

「息災なようで良かった。」

「…ありがとうございます。」

「僕は今、余裕が無い。久し振りのところ悪いが、また今度な。」

(駄目だ、このひとまで)

(…行ってしまう。)

思わず腕を掴んでいた。掴んだ瞬間にしまったと思った。それでも、この手だけは離してはいけないと思った。

(でなきゃ、だれがこのひとに手を差し出してやれるんだよ!)

「そうやっていつまで現実から目を背けてるんですか、」

ED75の血の気がサッと引く。殴られるかとも思ったが、ここは言葉の迸るままに叫ぶことにする。

「ED79さんはもういないじゃないですか…!」

自分だってED79には世話になった。E5とH5に対して懇切丁寧に海峡のことを教えてくれた。何度も困らせて、怒らせて、それなのに、自分は彼に何も返せていない。

「…なんで君が泣くんだよ。」

「だって、ED75さんが泣かないから。」

後から後から、とめどなく涙が溢れ出てくるのだ。

「参ったな。」

ED75が困ったような笑顔で言う。

「君が泣くから、泣けなくなってしまったじゃないか。」

「泣いてもいいんですよ、ED75さん…」

「無理。」

「即答とかやめてくださいよ」

「…仕方ないね、全く、こまちもつがるも君も困ったものだ。」

ED75もE5の横に腰を下ろすと、手を伸ばしてE5の頭を撫でてくれた。

「僕は愚痴を溢すだけだよ、E5。

「それでもいいなら、聞いてくれるかい?」

さよならを君に
さよならを君に

 いつかこの日がくるとは思っていたが、当日になると案外あっけのないものだった。同僚たちから労いの言葉を掛けられ、後輩からは花束を贈られる。幾度となく、先達を見送る度に見てきた光景だ。

「もう秋田には居られなくなるんですね…寂しいです…」

と、涙ぐむE6を、

「大宮にはたまに行くから。申請書を出して会いにおいで。」

となだめる。E6は目の端に涙を溜めて、頷いた。

 

夜、酒宴をこっそり抜け出して、誰もいないホームに降りた。屋根の端からは北国の星空が顔を出している。冷たいベンチに腰を掛け、指先がだんだん冷たくなるのを楽しみながら、星が動いていくのをじっと見ていた。

車籍抹消は来週末だ。その日を境に、自分は保存車のある小樽・仙台・大宮以外の地へ赴くことができなくなる。三都市間の移動はできるが、申請書が必要だ。

「小樽は寒いし仙台かな…やっぱり…」

E6にああ言った手前、行かないわけにはいかないが、あまり大宮には行きたくない。

…死んだ弟から託された車両があるから。

廃車になった車両はどうなるのだろうか。幾度願っても、盆にも彼岸にも、命日にだって弟は戻ってこなかった。保存車がある以上、自分は死ぬことができないので、たぶん相当先の未来にならないと分からないのだろう。

息を吐く。白い雲は、屋根へ向かって消えた。

 

「兄さん」

聞こえるはずのない声が聞こえて、ED75は身を強張らせた。

振り返る暇もないまま、背後から抱きしめられた。

「兄さん、お疲れさま。」

その言葉を最後に、腕の感触は消えた。

振り返ってみても、誰もいない。ただ、電灯の点いたホームが広がっているだけ。

(ああ、君はもういないんだな)

ED79がいなくなって以来、宙を漂っていた言葉がストン、と胸におちた。

ずっとさよならは言わないと決めていた。君がいなくなるなんて許せないと思っていた。

でも、君はもういないのだ。

だから、さよならを言おう。

ずっと言えなかったさよならを、君に。

優しいきみ
優しいきみ

十一月の雨が、ガタガタと窓に叩きつけている。ED75形700番台は、先ほどから心ここにあらず、といった調子で繰っていた書類を閉じた。

(遅い。遅すぎる…。)

通常ならば、1時間前には帰っているはずの兄のED75形が帰ってこない。何かと細やかに連絡をよこす兄は、支障があって帰りが遅くなるならば、確実に電話を入れるはずだった。

 

鍵の回る音がして、乱暴に扉が開けられた。ED75がずぶ濡れでそこに立っていた。

「おかえりなさい、兄さん。」

タオルを抱えて、急いで戸口まで進む。兄はなかなか、室内へ入ってこようとしなかった。

「どうしたの…廊下、寒いでしょ?風邪ひいちゃうよ。」

「……。」

コートの端から、赤い雫が垂れた。

(!?)

よく見ると、べったりと粘性の高い赤黒い液体がこびりついている。

「…事故った。」

700番台が訊ねる前に、ED75は先回りして答えた。

「人身。見ればわかるでしょ。」

「亡くなられたの…?」

「ああ、多分死んだ。」

ED75は疲れた顔で、ソファーに倒れこんだ。

「きっと死んだ。そんな感じがした。」

700番台が思い返す限り、ED75はいつだってひとが死ぬときそういう言い方をする。

わざと冷たい言い方で、自分が傷ついていることを隠そうとする。

「そう…」

700番台はED75のそばに座って、その顔を覗き込んだ。ED75はそれに気が付くと、ちょっとだけ嬉しそうに薄く笑った。

「君が気にすることはないよ。」

「…気にするよ。」

「一々気にしていたら、キリがないよ。」

また、そんなことを言う。

…そんなことばかり言うから、自分は兄を放っておけないのだ。

 

700番台の顔色を見て取ったのか、ED75はなだめるように再び笑った。

「君は優しいね」

「でもそれじゃあ駄目だ」

兄は手を上げて、700番台の頬に触れた。つう、と生暖かい血の跡が残った。

「駄目なんだよ」

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