◎海峡を越えて(小説版)青函連絡船編 短編集1
もがり(はまなすと北斗星)
強く雨が叩きつけている。風に大きく揺さぶられて、一段と甲板の傾きが増した。
(こんな大時化の日に、出航なんてしなけりゃよかったね。)
青函連絡船の北見丸は、手すりに全身を預けながら、荒れる海面を見下ろした。
(今となっちゃ、後の祭りだけどさ。)
列車を積載する船体の後部から、海水がなだれ込んでいるという状況である。どう進んでも、あとは沈むしかない。乗員、乗客のことを考えると胸が痛むが、自分とて数分後には海の底。生き残った者には好き勝手に叩いてくれとしか言いようがない。
(案外早く死ぬことになったね。)
脳裏を掠めたのは、11年前に沈んだ仲間たちの姿だった。
(翔凰丸、飛鸞丸、もうすぐそちらに行くよ。)
海面が迫ってくる。目は最後まで、開けておくことにした。
そして何も、見えなくなった。
「…!」
急行はまなすはガバと上身を起こした。パチパチと瞬きを何度か繰り返して、周りの景色が
頭に入ってくるのを待つ。ここは青森駅の客車控室、先ほど仮眠を取ろうと戻って来たはず。
窓から差し込む西日が酷く、目に染みた。
「因果なものだな…。」
はまなすはかざした手の先を見つめながら、口元に皮肉な笑みを浮かべて呟いた。
「北見丸」として沈んだ時、戻ってくるなど予想もしなかった。ただただ、この海で死んだ
仲間たちの下へ、やっと行けると思ったまでだった。
まさか、今度は列車となって海を渡ることになるなんて。
「運命の女神様とやらは、よほど気紛れであるらしいな。」
日高丸は、海峡へ。第六青函丸は、あけぼのへ。そして北見丸(じぶん)は、はまなすへ。
どういう条件を満たせば戻ってくるのかは分からない。少なくとも、自分は戻りたいと願ったことはない。それでもなぜか、戻ってきてしまうのだ。自分は今回で3回目だ。
軽くドアをノックする音がした。
「どうぞ。」
青函を通る客車のうちの誰かが、挨拶に来たのだろう。
適当に投げた視線が、ドアを開けてきた相手の上で固まった。
「お前…」
一目で分かった、彼女だと。思わず昔の名前で呼びそうになった。今の彼女は、そのセリフをにっこり笑って遮った。
「この姿では初めまして、急行はまなす。寝台特急の北斗星です。」
あんな最期だった君と、また会えるなんて。
にっこり笑ってくれたから、昔の名前では呼ばないことにした。
「初めまして、北斗星。夜行急行のはまなすです。これからどうぞよろしく。」
嵐のあと (北見丸と洞爺丸)
遠く意識を引き戻されるような感覚がして、洞爺丸は目を覚ました。全身が酷く痛い。
体を起こそうとすると、節々がギシギシときしんで、思わずうめき声が漏れた。
「無理するな、浮揚工事が終わったばかりなんだ。」
と、頬に大きな湿布を貼り付けた日高丸が、慌てて止めてきた。
「日高丸…」
「俺はちょっと運が良くて、今は修復工事中。」
俺は、という言葉が頭に引っ掛かった。
「ねえ、他の船はどうなったの?十勝丸や十一郎(第十一青函丸)は?」
「十一郎も浮揚は終わっているけれど、修復は無理だった。船体が3つに裂けたんだ、仕方が
ないと笑っていたよ。十勝丸はまだ浮揚作業中だけれど、来月には終わる見込み。こっち
は、修復工事まで行きそうだ。」
「ねえ」
自分の指先を見る。ゆっくりと曲げ伸ばす。
「北見丸は?」
その答えを聞くのが、怖かった。
日高丸は一瞬視線を逸らして、何回か瞬きをした。
「…会うか?」
北見丸は、自室のベッドで昏々と眠っていた。月明かりに照らされて、顔が一際白く映った。日高丸は、ベッドのわきの椅子を引いて、座り込んだ。
「沈んだ位置が悪かった。水深が52 mもあって、浮揚作業が難航している。」
「正直、俺はおまえも目が覚めないんじゃないかと思っていたよ。」
血の気の引いた手を握ってみる。
氷のように冷たい手。
死人の手だ。
こんなことなら、…こんなことになる前に、言ってしまえばよかったのに。
「馬鹿ね、私。」
呟きは虚空に溶けて消えていった。
九月になっても、十月に入っても、北見丸は目を覚まさなかった。
「ねえ北見丸、私、明日売却されるの。解体されるのよ。」
薄暗い部屋の中で、いつものように花瓶の花を活け替えながら、洞爺丸は言った。
「結局あなたは眠ったまま。…まるで、眠り姫ね。」
答えはない。
「ねえ、北見丸。」
声が震えた。ぽたぽたと、熱い雫が両眼から落ちる。
「さよならは言わないわ、きっとまた会えるもの。…いいえ、会うわ。今度こそ笑って、
あなたに会いに行くわ。」