
・姉の弟
特急カシオペアと摩周丸のはなし
「コーヒーがいいかな。それとも紅茶?」
そのふねは、ニコリと笑ってそう言った。
「……コーヒーで」
ことこととコーヒー液が落ちていく音を聞きながら、自分は何故ここに呼び出されたのだろうと考えた。
函館は途中駅だ、普段はそんなに長く滞在しない。だから、この船に入ったのも初めてだった。
「昔はもっと色々あったんだけどね。まあ、引退したんだからこんなもんさ」
置かれたカップは飾り気のない、どこにでもあるようなものだった。
「色々、とは」
「定食とか、ラーメンとか、アルコールとか。今じゃグランクラスでも出てこないよ。
まあ、コンビニが無い時代だったから」
冷めないうちに、と促されて口を付けた。こちらも、いたって普通の味がした。
「……用件は何でしょう」
「……別に、大したことじゃないんだけど」
彼はカップに角砂糖を一つだけ入れた。
「君がこちらに来れなくなるまでに、一度は長話をしてみたくて」
長話。確かに、このふねとこうして向かい合う機会は皆無だったと言っていい。
デビュー前の不安定な時期に少しだけ助けてもらったことはあったけれど、
当時は彼が何者なのか、全く知らなかった。
「それは、僕が“北斗星”の弟だからですか」
「……まあね」
姉のかつての弟は、目を薄く閉じて肯定した。
「姉さんが昔話をしてくれることなんか無いですよ」
「そりゃあそうでしょう。今は“北斗星”なんだから」
それでも人の口に戸は立てられないものだけどね、と言って、彼は砂糖をもう一つ加えた。
「走り始めた頃に比べれば噂話はずっと少ないけども……だから君が知っているわけでしょう」
「……姉さんが、“洞爺丸”だったということを?」
「そう。……いや、少し違うかな。それとも、その言い方が一等いいのかな……」
何事かを逡巡するように口を閉じたり開いたりしながら、彼はぐるりぐるりと匙を回した。
カップの中の茶色い液体は、渦を巻いて白い筋が現れたり消えたりした。
「“死に戻り”という言葉は、あまりいい文脈では使われないから。
“洞爺丸”と言った方がいいのかもしれない」
“死に戻り”———元々はふねの間での古い言い伝えだと聞く。
何事もなく、走り終えて去っていくふねが大半だが、「戻ってきてしまう」ふねもいるのだ、と。
「理由は本当にそれぞれだけれど……まあ、ひとは分かりやすい理由を当てはめたがるものだから」
「“はまなす”は……」
言い掛けたところで、危うく飲み込んだ。白髪の連絡船は、それを静かに眺めていた。
「……何を、はまなすから聞いたのかは、知らないけど。俺は今のは聞かなかったことにしておくよ」
「……ありがとうございます」
構わない、という仕草で手を振って、彼はカップに口をつけた。
「でも、姉さんが昔話をすることは全く無いので……僕は何も言うことがないのですが」
昔話をしない、ということは、北斗星は“北斗星”としてあろうとしているということなのだろう。
ならば。姉のいないところで、かつての姿を詮索するのは、お行儀が良い行動とは言えない。
「僕は姉さんの昔話を聞きたいわけではありませんし……あなたも、それを話したいわけでは
ないんでしょう?」
相手は、口元を僅かに緩ませたようだった。
「君がそれを望むのであれば、昔の話をしてもいいかな、とも思っていたんだけど。
いいやつだね、君は」
「僕はいいやつじゃありませんよ。姉さんのげんこつが怖いだけです」
軽口を叩く。彼はそれもそうかもね、と言いながら、含み笑いをした。
ああ、でも。一つだけ。聞きたいことがあった……かもしれない。
「摩周さん」
揶揄うような声で、名前を呼んでみる。
摩周丸は、意図を読み取ったかのように目を細めて、どうぞ、と手を差し出した。
「“あなた”にとって、洞爺丸はどういうふねでしたか?」
「……げんこつが怖くて、口やかましい姉さんさ」
君と同じようにね、と付け加えて。
青函連絡船・摩周丸は、朗らかに笑った。
