
11月1日、水曜日。
正午を四半時ほど過ぎた仙台駅の1番線に、品川から常磐路の374kmを走り通してきた特急ひたちが停車した。
シューという音と共に扉が開くと、出張帰りのサラリーマンや、大きな荷物を抱えた帰省客や、楽しげな顔をした旅人たちが、賑やかに列車から離れていった。
「……全員、降りたかな」
特急ひたちの車両———E657は、右を見て、左を見て、ぴょこん、とホームに降り立った。
そのまま腕を思い切り上げて背伸びする。
「やっぱ品川から仙台は長いよねえ、たっぷり走ったって感じ」
この後はしばしの休息だ。どこかの売店を物色するのもいいが、まずは共用の控室に顔を出さないと。
階段に向けて一歩を踏み出したE657は、何かが靴に当たる音を聞き取った。身を屈めて拾い上げる。
客の誰かが落としたのだろうか。
「落としもの……は落としものなんだけど。なんかどっかで見たことあるような……」
小さな木彫りのクマが付いたストラップ。
ハッキリとした記憶は無いが、既知の車両たちの誰かが持っていたもの、であるような気がする。
「まあ、木彫りのクマっていえば北海道だし。まずは新幹線フロアに行ってみるか……」
「木彫りのクマのストラップ?俺のじゃないな」
新幹線のH5は、ちょっと困ったような顔で頭を掻いた。
「だって俺がスマホに付けてるのウニだもん」
「ウニ???」
「ほら、ちょっと前……いや、もうだいぶ前か?キャベツを食うウニが流行ったろ?」
これを見ろ、と言いながらH5が差し出してきたスマートフォンには、確かにウニの絵が印刷されているアクリル板が付いていた。
「じゃあE5のかな」
E5も新函館北斗までは毎日乗り入れているはずだ。
「違う。あいつはスマホにストラップとか付けてない。……というより、新幹線のじゃないんじゃないか?」
だって在来線のホームに落ちてたんだろ、そう言ってH5は長身を屈めると、しげしげと木彫りのクマを見つめた。
「うーん……でも木彫りのクマと言ったら北海道でしょう?」
「確かに売ってはいるけども……まあ、E5がこの後すぐに来るはずだから、聞いてみるんだな」
「それ絶対どっかで見たことある!見たことがあるんだけど、誰のだったっけ……」
額に手を当てて、E5が考え込んだ。
「やっぱり新幹線の誰か?」
「いや、違う。僕が知る限りでは、誰もそれは付けてない。在来線の誰かのだったと思うんだけど……」
もう少しで思い出せそうなんだけど、と言いながら、E5はぐるぐると歩き回り始めた。
「あと5分で出発なんでしょ。無理しなくていいよ」
「いや、なんか意地でも思い出したい」
ギリギリまで粘るからちょっと待って、などと碧い新幹線が呟いているところに、しかめっ面をした車両が昇ってきた。
「E5、何してるんだよ。もうちょっとで出なきゃいけないのは君が一番よく知ってるだろ?」
「うう……ごめんて」
つかつかと近付いてきたE6は、E657の持っているものに気が付くと、目を丸くして立ち止まった。
「75さんのだ」
「あー……」
どことなく悔しそうなE5を尻目に、E6は腕を伸ばすとストラップを受け取って、しげしげと木彫りのクマを見た。
「……うん。75さんのだよ、これ。」
「75さんって、電気機関車のED75さん、だよね」
確認する。秋田新幹線のE6が言うということは、まず間違いないだろう、と思いながら。
「あれ。知らない?仙台にも顔は出してるはずだよね。車両があるから」
「知ってるっちゃ知ってるけど……」
言い淀んだのは。
「あんまり会ったことがなくて……もしかすると……っていうか、たぶんボク、避けられてるんじゃないかと……」
E6とE5の顔がサッと曇るのを見て、ああ、マズいことをした、と思った。
……でも、一体他になんて言えばいいんだろう。
「“常磐線”がね……」
E5が呟く。……きっと、そうだろうと思っていた。だって、それを経験している人はみんな、そういう言い方をするから。
東日本大震災。12年前、ボクが造られる前に起きた、とても……とても大きな地震。
「E657は何も悪くないよ。君に悪いとこは、一つもない」
顔を上げる。
「誰も悪くないけど、E657に悪いとこは絶対ない。絶対絶対、君は悪くない」
E6は真面目な顔で、キッパリと言い切った。
「だって、君は地震の後に造られた車両じゃないか」
それは……そうだけれども。でも、
すぐそこのスピーカーからけたたましいベルの音がして、三人は飛び上がった。
「ごめん。……僕ら、行かなくちゃ」
「……うん」
軽く手を振る。E5とE6は足早に列車に乗り込んでいった。
「って言ったはいいものの……」
手の中には、先程と変わらず、ストラップが一つ。
E657は木彫りのクマを揺らしながら、どうしたものか、と考え込んだ。
「……あ、そっか」
仙台に着いたとき、向かうつもりだった共用の控室。そこに、置いておけばいいのだった。
ED75だって控室は使うのだから、目に付く場所にあれば持ち帰るだろう。
きっと、これが誰にとっても一番いい方法だ。
心なしか、少し足が軽くなったように思える。E657は階段を上りきると、勢いよく控室の扉を開けた。
「……あ」
その瞬間、息を呑んだ。
————ああ、自分はなんて愚かだったんだろう。
この可能性を、一つも考えなかったなんて。
毛先まで真っ赤な髪に、同じ色の物憂げな瞳。小柄な体を夕暮れ色の制服に包んで。
ED75がそこに立っていた。
「こんにちは」
「……お疲れさまです」
ED75は僅かに口元を緩ませると、そのまま出て行こうと……したのだと思う。
「あの、」
焦らなくていいはずなのに、口が回らない。
「これ、あの、……75さんのだって聞いて……」
ストラップを差し出す。これで、人違いだったとしたら、
「……僕のだ。ありがとう」
そっと手を開くと、木彫りのクマはED75が差し出した手のひらに落ちた。
「あってよかった。弟から貰ったものだから」
弟。ED75にはきょうだいがいる、ということなのだろう。
「……どうかした?」
「いや……その……ボクは独立した形式、なので」
おまえは考えていることがすぐ顔に出るね、と先輩たちにはよく言われている。
「……きょうだいがいらっしゃるのって、いいなあって……」
あたふたして手を振る。どうにも慌ててしまって、ED75の顔が見れない。
「……そっか。そうだよね」
声は、優しかった。おずおずと顔を上げる。顔も、優しかった。
……でも、どこか、諦めたような笑みが、口の端に浮かんでいた。
「僕より北で走る弟が、いたんだけどね」
淡々と。ED75はストラップを見つめながら続けた。
「何年か前に、いなくなっちゃったんだ。……拾ってくれてありがとう。じゃあね」
***
「———ボクはどうすればよかったっていうんですか!!!」
空になった大ジョッキをテーブルに叩きつけて、E657は頭を抱えた。
「えっと、あの、なんていうか……すごく間が悪かったね……」
目の前にはとても気まずそうな顔をしたE5がいる。
「ボクのすることなすことぜーんぶ!!!ダメだったっていうんですか!!!」
「いや……そうじゃないと思うけど……」
「遅れてごめーん」
うずくまるE657と沈黙するE5の間に、白髪の青年が手を振りながら割り込んできた。
「……え?何?この空気?気まず!!!」
H5は手を上げて飲み物を頼むと、渋い顔をする両者の顔をまじまじと見た。
「E657、おまえ、75さんの地雷全部踏んだの???」
「H5!!!」
E5が睨みつけるのもお構いなしに、白髪の新幹線はヒラヒラと手を振った。
「だってそういうことだろ?この感じって」
それは、……その通りだ。
「H5、あのさあ……僕いつも言ってるよね、君はデリカシーが足りないって」
E5はため息を吐きながら、ジョッキに残ったビールを飲みほした。
「俺は別に心配りに欠けてるんじゃないよ。みんなが言おうとしないことを言ってるだけ」
H5は澄ました顔で、店員が運んできたジョッキを受け取った。
「E657は分かるか?“遠慮のかたまり”ってやつ。みんなが遠慮しあって取らずに最後まで残るもののことな。
俺はそれを敢えて取ってるの」
ぐびぐびと酒を飲みながら、H5は更に言葉を重ねた。
「E5さ。おまえ、“阪神淡路大震災”は知らんよな?」
「……それ、“体感してないよね”っていう意味だよね。そうだね。知らないよ」
君にしては回りくどい言い方するね、と言いながら、E5は腕を組んだ。
「関東から南東北あたりは地震が多い地域だから、震度3くらいまでならすぐに慣れてしまったけど。
大きい地震はいつどこで起きるかなんて分からない、って口では言いながら、緊急時の訓練もしながら、
でも、なーんにも分かってなかった。……実際に自分が当事者になるまでは、ね」
「それを踏まえて、考えてほしいんだけど。E657も俺も、“東日本大震災”より後の生まれなんだよな。」
しかめっ面をしたE5を眺めて、H5は目を細めた。
「周りには、大変な状況にいて、辛い経験をした先輩や旅客たちがごまんといる。それは知ってるよ。
でも、俺、本質的には、分かんねえんだよな。“それ”に遭ったことがないから。幸いにも、だけど。……分かんねえんだ、分かりっこないんだよ。“遭った”ひとたちの中でも状況がてんでバラバラだってのに。“遭ってない”俺が、分かるって言えるわけがない」
たぶんそれは。H5なりの、誠意なのだろう。
「まあ、ね。僕は“遭った”側だけど、“僕”の中でも記憶はどんどん変化しているからね」
E5がぽつり、と呟いた。
「いつどこでだって大地震は起こる。対策は、必要だ。何のために対策してるのか、“実際に起きたらどうするのか”、
伝え繋ぐことも必要だ。……でも、当事者のものでさえ、個人の記憶って必ず変化するものだから」
視線が揺れ動く。E5は組んだ指を、さらに固く締め合わせた。
「“E5”は、“東北新幹線”は、ある意味では東北の復興の象徴だ。僕はそれでいい。“E5”はそれでいいと思う。
“新幹線E5系電車”には、それを担う責務がある……と思う」
「ただ、E657、君は……“後”の生まれだ」
「常磐線は、元々はいわき駅で系統分離される予定だった。“通し”の特急で復活させることになったのは、
全線復旧に合わせたからだ」
「僕は思っている。“後”の生まれの者に、“復興の象徴”という重責を負わせてよかったのか?」
コトン、と音がして、E5は我に返ったように目を瞬かせた。
E657は、何事か、と思いながら乗り出していた身をちょっと戻して横を見た。
「E5~~~?話がズレてる、すっごいズレてるよ?とりあえずコレ飲んで落ち着きな?」
H5が頼んだ水のグラスが三つ、目の前に置かれていた。
「E657が困惑してるだろ。……って当人がいるのに俺が代弁するのもなんだから、直球で訊くけど。
E657、おまえ、E5が何を言いたいのか分かった?」
「……気を遣ってくれてるっぽい?のはなんとなく……」
正直に答えた。E5の深刻な話ぶりに呑まれかけていたものの、最後の辺りの文句はなんだかピンとこなかったからだ。
「ボクは常磐線のために造られた車両、なので。常磐線と沿線の自治体の隆興のために尽くすのは、当たり前です。
ボクの仕事です」
せっかくだから、と先ほどのグラスの水を一口飲む。程よい冷たさが心地よい。
「“たまたまタイミングが被った”だけですけれど……ボクは常磐線の復旧と共に受け入れられた、
沿線の方々に“常磐線の特急”として育ててもらった、と思ってます。
だったら……それは、ボクが“常磐線の復旧の象徴”となるのは、当然なんじゃないですか?」
ビシッとE5を指さした。これは、己の誇りだから。
「それに、今のボクは……もう“象徴”ではないと思います。ボクの存在は、ボクが走っているのは、既に“日常”なんで。
だから、ボクは“常磐線の特急”です!常磐線の沿線、いいとこですよ!
美味しいもの、面白い場所、楽しいこと、たっくさん!ありますから!ボクはそこに人を運ぶのが、仕事です!」
ぱちぱちぱち。H5の拍手と共に、浮いた腰を戻す。いつの間にか、席から立ちあがっていた。
「E5さ。俺、常々思うんだけど。復興って、どういうことなんだろうな」
H5が呟いた。
「街が造り直されてさ、人が……居続ける人もいれば、戻ってこねえことを選ぶ人もいるし、新しく入って来る人もいるし、
まあ、そんな感じで街に人がいてさ、街が街として機能するようになれば復興した、ってことなのかな。
デカい天災はいつまた起きるか分からんから、何があって、生き残るためには何しなきゃいけんのか
伝え続けなきゃいけないんだけど、だから、何もかも元通りってことには絶対ならないんだけど。
あと、おまえみたいな“知ってる”世代はさ、“知ってる”ことをずっと抱え続けるわけだろ。
どうなったら、“復興”?」
「外からの支援が無いとどうしようもない段階とか、自治体内での経済活動に少しずつ足を戻していく段階とか、
課題は残れど自治体として独立してやっていける段階とか、そういう側面で考えるなら、
色々と段階があるということになるんだろうけど……」
答えを悩むような表情で、E5が答えた。
「災害を“知ってる”ことで各々が抱える問題に対して、各々がどう対応していくのかは、
“復興”と深く関係はするけれど、“復興”そのものとはまた別のものになるんじゃないかな……」
たぶん。それは、
「街が街として機能するために、鉄路が鉄路として機能するために、“行動”はしなきゃいけない。
極端なことを言うと、“全く別の場所に街を移す”って選択もあるけど、とにかくなんらかの“行動”は、
しなければいけないことだ。だけど、」
失われてそれっきり、還らないものは、あるから。
そして、“知っている”僕らは、還らないものを“想う”ことは、止めることができないから。
碧い新幹線は、躊躇いながらも、そう言った。
「あまりにも雁字搦めになって日常に支障が出ているのなら、それは、人間なら精神科だったり心療内科だったり、
とにかく専門の医療機関へ行こうねってことになるんだけど……
だから、こういう“状態”がいい悪いってことは言えるんだと思うんだけど、
でもさ、“もう考えるな”なんて、他者が言えることじゃないから。
当人がそう決めたんなら別だけど、“想う”ことを止めることなんて、できないから。特に、“知っている”僕らは」
ゆらゆらと揺れる眼差しは、おそらく視線の先には居ない、誰かのことを見ているのだろう。
……きっと、その中には、ED75もいるのだろう。E657は、そう思った。
「話が最初に戻るんですけれども……じゃあ、“知らない”ボクは、どうすればいいんでしょうか。
あの、ぶっちゃけて言ってしまうと、75さんに対しての態度の話、なんですが」
途端、頭を抱えだすE5を見て、どうどう、と肩を叩きながら、H5がのんびりと口を開いた。
「何もしなくていいんじゃない?」
何も。それは、どういう意味なのだろう。
「聞いた感じ、おまえも75さんも程よい距離を互いに探り合ってるとこなんだろ。
さらに重ねてこっちからあれやこれやと手出しする必要、ないでしょ」
……そうだろうか。
「なるようになるさ。あんま気負わずいこうぜ」
H5は傍らからメニュー表を取り出して開くと、追加の食い物は何にするか、と楽しそうに訊いてきた。
***
「……用があるなら、何か言いなよ」
しかめっ面のED75に促されて、EF81は頭を掻いた。
「言いにくいことをハッキリ言っちゃうのが君の美点かつ欠点だと思ってたんだけど?
今日の君は、どうにも“らしく”ないね」
EF81はとても話しにくそうな顔で、口を開けたり閉じたりしている。
「どうせ、今度の撮影会の話なんでしょ?“水戸”の」
「……話、回ってたのか」
「回ってるも何も」
掲示板を指し示す。
「今月の日程表の最後のところ……正確にはちょっと来月に出てる部分だけど、そこに書いてあるよ」
はあ、とEF81は息を吐いた。
「出てる通りだよ。ED75形電気機関車は来月の初めに水戸へ行く。往復の牽引は俺がやる」
「……700番台で常磐に入るのは、オリエントサルーン以来かな」
まあ、あのときは藤代までだったけどね、と言いながら、ED75は貼り出してある地図を見た。
仙台から南へと、概ね海岸線に沿って、一筋の鉄路が記されている。
そろそろと、ゆっくりと、ED75は線の上を、指でなぞった。
「俺が何を言うかは、たぶん分かっていると思うけど」
EF81が言った。
「一応、訊く。……言っていいか?」
「……いいよ」
地図を見つめながら、赤髪の交流電機はそう答えた。
「俺はおまえの757号機を水戸へ連れて行く。
常磐線の、ED75の1039号機が津波で破壊された地点を通って、おまえの車両を連れて仙台と水戸を往復する。ただ、」
「行くよ」
EF81の言葉を遮って、ED75は、短く言った。
「行く」
「……分かった。俺はおまえを、水戸へ連れて行く」
EF81は一瞬だけ目を瞑ると、承知、という様で頷いた。
「いつもすまないね」
「別に」
ガシャガシャと結った髪を掻くと、EF81は傍らの書類を取り上げて、説明を始めた。
***
「来るんですか、75さんが。“水戸”へ」
11月10日、金曜日。勝田駅の北側に設けられた車両センター内で、E657は息を呑んだ。
目の前の掲示板には、先ほど発表されたプレスリリースが貼られている。
「プレスリリースの言い回しがまた、絶妙だねえ」
E653がなんとも言えない顔つきで言った。
「俺は、ED75を水戸まで持って来るかどうかは、トントンだと思ってた」
「それは……」
「そうさねえ。“貨物”が絡んでるイベントだったら、やらないでしょ、これは。たぶん」
遠い目をして、E653は頬に手を当てた。
「あの会社は、1039号機への思い入れが強いから。手元に残してる銘板は、相当大切にしてるようだし」
鉄道博物館の展示と、隅田川駅の公開日以外に出してたことあったかな、と言いながら、
E653は手元の端末でプレスリリースのPDFを繰った。
「“東日本”もそれは意識してるんだと思うね。だから、こんな言い回しになるわけ」
薄く開けられた窓から冷たい風が漏れ込んできて、E657は少し瞬きをした。
「ふーん。兄貴が、こっちへ来るんだ」
突然、誰もいなかったはずの傍の空間から、声がした。
赤髪の交流電機が、ED78が、E653の端末を反対側から覗き込んでいた。
「……78さん。いつも言ってるでしょ。こっちに来るときは、ひと声かけてくださいよ」
E653が呆れた声を出した。
「すぐ隣の事業所に居るからって、フラフラ勝手に出入りして。こっちは仕事があるんです」
「だって、JRの情報を掴むんだったら、こちらに来た方が早いんだもの」
ED78は長身をすくめて、ちょっとしゅん、とした。
通常は、ED78は勝田駅の隣に、広大な敷地をもって佇む日立製作所の事業所のどこかをうろついている。
保存機が敷地内にあるからだ。しかし、勝田車両センターの方にも、しばしば出入りを重ねていて、
そのたびにE653に怒られているのであった。
「まったく……まあ、今日はいいです、ちょうど良かったから」
E653はため息を吐いた。
「ちょうどいい?……ああ、兄貴がこっちに来るってとこね」
ED78がED75の妹であるということは、仙台方面に出入りする車両たちにはよく知られていた。
ならば、E653が「ちょうど良い」と言うのも、無理はないだろう。
「……78さんは、75さんがこっちに来るってこと、どう思ってるんですか」
勇気を出して、口にしてみた。
ED78は、こちらを見て、ちょっと驚いたような顔をした。
「え?何か問題でも?」
「問題……ってわけじゃないんですけど、ボク、75さんと関係が……気まずくて」
というか、ED75の身内に事情を話すのも大層、気まずい。
「そう。……いや、あたしも気まずくないわけがないんだけどね!」
苦笑いしながら。彼女は、懐から本を一冊、取り出した。
「これ。兄貴の本なんだけど。常磐線の沿線ガイドね」
「……なんで78さんが持ってるんですか?」
“兄貴の本”ということは、ED75がED78に譲り渡した……わけではないのだろう。
「もう10年近く前になるかな?利府からこっちに移ってくる時に、兄貴から借りて。っていうか、
だいぶ無理矢理に取り上げた、ってのが近いかな。あのときは、常磐線の復旧工事も、まだ半ばだったから」
震災の爪痕も相当に生々しい頃だったし、末の弟の引退が近くて、だいぶ塞ぎ込んでたから。
つい、取り上げちゃったんだよね。取り上げちゃったっていうか、本人には借りるって言ったんだけどさ、
ED78は言うと、本をくるくると回した。
「あたし、口では“借りる”って言ったけど……兄貴とこっちで会える日が来るなんて、
その時は、ホントは思ってなかった。兄貴も思ってなかったと思う。……気まずいね!」
E657の気まずさとはタイプが違うと思うけど、気まずいなあ、この本は返した方がいいんだろうけど、
ED78はぶつくさ零しながら、本を手にしたままでいる。
その様子を見ると。少しだけ、心の靄が溶けるような、そんな気がした。
……これまで、この気まずさを、肯定してくれたひとは。いなかったから。
「ていうか、75さんは“来る”のか?そりゃ、車両は持ってくるだろうけど」
E653が首を傾げた。それは、そうだ。当人が来ないのなら、いくらここでグダグダと管を巻いていても、仕方ない。
「うーん……正確には、EF81に訊いた方がいいと思うけど、」
ED78が言った。
「兄貴は、来ると思うね」
「来ますかね」
「来ると思うなあ。まあ、撮影会のときに車両基地の中にちゃんといるかは、分かんないけどね」
案外、この辺りをぶらついているかもね、ED78はそう言って。本をまた、振った。
***
12月2日、土曜日。撮影会の初日の水戸近郊は、朝からずっと、いい天気だった。
予報によれば、明日まで好天が続くらしい。
「……E657?おまえ、そろそろ、品川に出ないといけない時刻だろ」
E653が、しかめっ面で額を抑えながら言った。E657の様子を見ていると、
数分おきに立ち上がっては窓の外を見ているように見える。
……もう、ずっと窓の傍に立っていればいいんじゃないか、とE653はため息を吐いた。
「水戸の撮影会が気になるのは分かるけど。おまえは仕事があるの!明後日の午後まで仕事だろ!
集中に欠けてるのは、安全運転上、よろしくないね」
「すみません……」
そう言いながらも、E657は、気もそぞろ、といった素振りをしている。
「まったく……」
E653は、運行表の束を、パラパラと繰った。
「ED75の戻りの回送には、間に合うだろうから。何か言うことがあるなら、そこで言ったら」
「え。すぐ戻るんじゃ、ないんですか」
「兄貴の回送は、5日だってよ」
振り返ると、ED78がにこにこと手を振っていた。
「……補足、ドーモ。78さん、立て込んでるからって俺の小言は消えないですよ。
あなたは引退してて、外の会社にいるんだから、来るときは連絡入れてください」
「ごめんねえ。でも、“ちょうど良かった”でしょ?」
ひらひらと。ED78は片手を振る。反対側の手には、先に見た本が握られているのを、E657はしっかりと確認した。
「78さん、その本……」
「うん。今から、兄貴に返しに行こうかなって」
ED78は、本を抱え直すと、のんびりと言った。
「気まずさはあるんだけどね。でも、返した方がいいでしょ、“借りた”んだから。
まあ、兄貴が、あたしと会う気があるかは分かんないけどね」
「78さん……」
「伝言は、訊かないよ?」
E653も言ってたでしょ。何か話したいことがあるなら、兄貴に直接、言いなよ。
ED78はそれだけ述べると、また手を少しだけ振って、姿を消した。
「E657さ。おまえ、75さんに何か用でもあるの?」
「……?」
「おまえさ。“気まずい”ってのはまあ、分かるんだけど」
気まずさって、一朝一夕でなんとかなるわけじゃないだろ。
おまえの用事って、“気まずさ”をなんとかしたいわけじゃ、ないんじゃないのか。
先輩特急は、訝しげに尋ねてきた。
「そうですね。“気まずい”ってのは、積極的に何かしなくていいんじゃない、って。H5にも、言われました」
「だろ。だからさ、方向性が違うのかもしれねえな……って」
E653は、腕を組んだ。
「78さんも“気まずい”って言ってたけど、たぶんそりゃ、見込みが低かったことへの後悔で。
会っちまえば、なんとかなるんだと思う」
だけどさ。おまえの“気まずさ”って。お互いに、会うのを避けてるとこから発生してるわけで。
75さんもおまえも、“自分を守る”ために避けてるんだろうから。
だからさ、それってさ、直球でなんとかなるもんじゃないでしょ。E653は、そう続けた。
「……なんか、今日の先輩、すっごく頭がキレますね」
「おまえをさっさと早く仕事に送り出さなきゃいけないからな!」
ふくれっ面で、E653はイライラと指を振った。
「おまえが75さんにしたいことって、何?75さんとしたいことって何?……おまえは、そこから考え直すべきだ」
「……なるほど」
随分と、道筋が、整理された。……のかも、しれない。
「感心してないで、早く仕事に行けって!考えるのは休憩時間な!仕事中は、仕事に集中!」
E653は、E657の背中を押すと、今日も安全運転!と言って、笑った。
***
「……アイツ、何してるんだろう……」
「あんなに悩んでたのに、日付と時刻まで教えたのに、ね」
勝田車両センターで、E653とED78は頭を突き合わせて悩んでいた。
当番が終わっても、E657が一向にセンターへ帰ってこないからだった。
「三日の午後に、仙台で当番が終わって。そっから、なーんか、戻ってこないんだよな……」
「品川とかに、電話は掛けたの?」
ED78が、E653の持つ、携帯端末を指して尋ねた。
「掛けたし、勝田の車両にも訊いた。常磐線の沿線には、いるらしい」
「沿線には“いる”らしいって、意味不明なんだけど……」
ED78が、首を傾げた。
「E531が言っていた。E657の姿は、時々、見かけるんだと」
「……見かけるって、どこで?」
「なんか、沿線の店とか。駅の売店とか。そういうとこ?……で……」
「「あ」」
できる限り。急いで。急いで、できることをしたけれど。
こんな時間まで、掛かってしまった。
E657は、プラットフォームを、きょろきょろと見まわしながら、赤い機関車たちの姿を探した。
これで、もし。もう出てしまっていたとしたら、
……いた。
ホームの端に、何やら話し込んでいる、ED75とEF81の姿が、あった。
「75さん!」
ありったけの声を出して、呼び止めた。そのままの勢いで、駆け寄った。
己の最高運転速度は130 km/hだ、足には自信がある。ED75はEF81と並んで、目を丸くしていた。
「忘れもの、です!」
両腕に抱えた、ありったけの土産ものを渡す。
常磐線沿線の、選りすぐりの産物たちを、これも、これも、これも、これでもか、と、山積みにした。
「E657……?これは……その……、なんだ?」
両腕に、両肩に、大量の土産ものを抱えて、ただただ目を白黒させているED75を見かねてか、EF81が助け舟を出した。
「75さん、この後は真っすぐに仙台まで帰るんでしょ!仕方ないけど、もったいないです!
もったいないから、お土産です!これも!これも!これも!すっごく!美味しいんですから!」
いいから81さんも持ってくださいよ、と、EF81にも大量の土産ものを押し付ける。
俺はこの後すぐに仕事なんだぞ、と、苦笑いしながら、EF81は包みを抱え直した。
「……あの、」
「御礼は、受け付けませんから!これ、マーケティング調査なんで!」
ED75の言葉を遮る。我ながら、分かりやす過ぎる言い訳だ、と思う。
傍らのEF81を横目で見ると、交直流の電機は堪えきれずに、ゲラゲラと笑っていた。
「ボクは、どれもこれも最ッ高だと思ってますが!やっぱ、贔屓目ってもんが入っちゃうわけで!だから、」
「……僕の、感想が知りたいと?」
呆れた顔で、ED75が呟いた。
「そういうことです!」
ビシッと。ED75を指さす。赤髪の交流機は。まいったな、と顔を崩した。
「……君、何かと回りくどいって、言われない?」
「まあ。ボクは常磐線の、特急ですからね」
今なら、言ってもいいだろう。きっと。受け入れてもらえるだろう。
「コツコツ、待って。機会が来たらドカッと駆けるのが、得意なんですよ」
「……そう」
ED75は。少しだけ、ほんの少しだけ。笑った。
「じゃあ、仙台で。……またね」
「はい!」
警笛が鳴った。EF81とED75は、一度も振り返らずに機関車に乗り込んでいった。
E657は、回送の電機たちが北上していくのを、ずっと見送った。
これが、正解なのかは分からない。
自分が考えて、考えて、出したことだけれど。
でも、自分は、きっとまた、ED75と会うだろう。
今度こそ、会って、なんでもない話をして、過ごすことができるだろう。
……そう。なんでもない、話こそが、したいのだ。最初は、たぶんまた、ぎこちなさが残ると思う、けれど。
……そうしたい。
これが、己の、今の日常だから。
E657はぐい、と一回伸びをすると。踵を返して、車両センターへ繋がる線路を駆けていった。
【了】