遠く、東京では桜の蕾が綻びつつあるとはいうが、こちらの三月の夜は吐息が色づくほど寒い。
仙台駅常磐線ホームの蛍光灯を眺めながら、ED75は少しだけ身震いをした。
「大丈夫ですか?」
隣に立つE5が心配そうな視線を送ってくるのに気が付かないふりをして、ED75は
「大丈夫」
と、短く言った。
「亘理はすぐそこだし。僕、最近は客車牽引の臨時以外、入るの短い距離だから。」
「…そういうことじゃないの、分かっているでしょう、」
碧い新幹線は腕を組んだ。
「八年ぶりじゃないですか。貴方が常磐線に入るのは。」
「そうだね」
「……」
暫しの沈黙が流れた。E5が何事か言おうとするのを遮って、ED75は笑いかけた。
「そろそろ出発の時間だから。ありがとう、見送りに来てくれて。」
そのまま、くるりと向きを変えて。ED75はホームから消え去った。
「ああ、なんで貴方はそんなにずるいんだ」
E5は顔を押さえて、しゃがみ込んだ。
「僕はED79さんから頼まれているのに…」
闇夜に星が一つ、また一つと瞬いた。
「本当に、何事もないといいんですけれど…」
***
2011年、春。
「二日からしばらく、常磐線の方に出るからね。」
ホワイトボードに一ヵ月の予定を書き込みながら、ED75はにこやかにそう言った。
「1039号機?運用に復帰するのか。」
EF81は運行表を覗き込みながら、ちょっと意外そうに言った。
「運用離脱するのかと思ってたけど、検査中なんだな。」
「うん。今、台車を診ていて。明後日試運転。」
大きく矢印を書くと、重要な項目に線を引っ張っていく。
「そうかー。まあ、こっちは俺とEH500で回しとくから。心置きなく常磐で暴れてくれ。」
「頼むよ。」
あらかたボードに記述し終わると、ED75はペンを回しながら部屋を出て行った。
「…めっちゃ機嫌よさそうでしたね、75先輩。」
EH500が扉に目をやりながら、呟いた。
「まあ、1039号機はあいつのラストナンバーだからな。思い入れもあるんだろ。」
「僕、あんなに機嫌よさそうな先輩見たの初めてですよ。」
結った長髪を振って、長身の赤い機関車は目を薄く開けた。
「いいことを教えてやろう。ED75はED79の話を振れば機嫌がいいぞ。」
「それ、逆に地雷も埋まってるやつですよね!知ってますよ!」
「それが読めるなら一人前だな。」
EF81は笑いながらペンを手に取った。
「予定書いてくからメモ取れよ。来月はちょっと変則的だかんな。」
***
「まさか沿線火災とはね…」
配線図と運行ダイヤを睨みながら、ED75は動いている車両の様子を伺った。
「92列車、1時間の遅延…牽引機は1039号機、か。」
「だいぶ遅れているな。」
DE10が、背後から覗き込んできた。
「旅客との調整はどうなってる?」
「E721が来たよ。とりあえず、こちらが遅らせることで決着を付けた。
まあ、僕も列車は水戸まで動かさなきゃいけないから、さっき送り出したけど。」
「ご苦労さんです。今どの辺?」
一瞬目を閉じて、車窓を確認する。
「んー…この感じだと、浜吉田を過ぎたくらい?」
視界の外れで、壁にかかった時計の秒針が、カチリと音を立てて動いた。
「……?」
DE10がちょっと怪訝そうな顔で、上を見た。
「何?」
「揺れてないか?」
「地震?」
確かに、ゆらゆらと、地が震えている。
次第に、いや、急激に揺れが大きくなっている。
立っていられない、意識を固定できないほどの、
「おい、棚から離れろ!」
横を向くと、本が雪崩のようにこちらに崩れおちてくるのが見えた。
耳鳴りがした。
何か、何かが奥底で、ざわめいている。警鐘を鳴らしている。
ぐい、と引っ張り戻されて、ED75は意識を取り戻した。
「…山下の北?」
いつもと同じように、風が潮の香りを運んできた。
無線に耳を澄ます。どうやら、全ての車両の運行が止まっているらしい。
背後を確認して、ED75は凍り付いた。
「どんだけ大きい地震だったんだよ…」
レールが、海とは反対方向に動いてしまっている。本来、ここは直線のはずなのに、貨車が妙にゆがんで並んでいた。
「機関車は脱線…、はしてないかな」
機関士が外に出て、確認しに行くのが見えた。壁に手を触れる。
急停止はしたものの、車両本体の機器に異常はないようだった。
少しホッとして、外に出た。周りをぐるぐると巡って、足回りの確認をする。
車輪は落ちることなく、しっかりと線路の上に乗っていた。
(宮城沖で偶にあるやつか…前回の大きいのが2005年だから、…6年前?)
(それにしても、レールがズレるとは…78年の地震も何日か止まったけど、復旧にどれくらいかかるだろう…)
「……」
「……」
「……ッ!」
背筋に寒気が走って、振り向いた。
海が鳴っている。
水平線が膨らんで、一気にこちらに迫ってきている。
ビニールハウスも、小屋も、全部巻き込んで、視界が黒く染まっていく。
津波だ。
バタン、と音がして、運転室のドアが閉まった。
周囲は水田。山まですぐに走れるとも思えない。
機関車の高さを考えれば、悪い考えではないのかもしれない。
そもそも、線路は海岸から2km以上離れているのだ。
足元まで来たとしたって、大した波ではないだろう…。
そう考えて顔を上げた。
「え」
青黒い壁がすぐそこにあった。
次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を襲った。
飛びそうになる意識をなんとか捕まえて、目を凝らした。
潮の向こうに、今よりも遥かに大きな壁を見た。
(逃げちゃだめだ、動いちゃだめだ、ここで僕が離れたら。機関士はどうなるんだ)
台車に背を押し付けて、歯を食いしばったところまでは覚えている。
***
目を開けると、見覚えのある天井があった。
何度か瞬きをして、どこだろう、と思った。
意識にもやがかかって、うまく考えがまとまらない。
「…なんだ。秋田の僕の部屋じゃないか」
聞こえた自分の声は、なんだか妙にかすれていた。
「そうだよ。おまえの部屋だ。」
EF81が視界の端に映ったので、体を起こした。
「無理に起きなくていいぞ」
「……別にいいよ。なにがあったのさ?」
赤い電気機関車はため息をついた。
「一昨日宮城沖で強い地震があったろ。皆で常磐線に入ったおまえのことを心配してたら、
夜遅くにいきなり戻ってきて倒れ込んで。新幹線のちびは泣くし、大騒ぎになったんだぞ。」
「………全然覚えてないんだけど」
額に手を当てる。ひどく頭が重い。
「そういえば君は東京に出てなかったっけ?」
「関東も、というよりJR東の路線は全て止まってな。あの日は田端も大変なことになった。
まあ、関東は昨日から動いているからな、今は秋田にいる。それに、ちびが泣いて頼んでくるもんだからな。」
「…君、E6に甘くない?」
「俺の後輩じゃありませんしーそれにE3は厳しく躾けてるみたいだからー」
そう軽口を叩いた後で、EF81は真面目な顔に戻って言った。
「一昨日のこと、思い出せるか。常磐線、仙谷線、石巻線、山田線、気仙沼線、大船渡線、それに三陸鉄道と仙台臨海鉄道が
津波で滅茶苦茶だ。直撃を受けた車両に事情聴取してはいるが、なにしろ被害範囲が広大だから、状況がよくわかって
いなくて。あとは機関車が忙しくて、DE10なんか3両逝ったのに連日出ずっぱりで吐きながら仕事してる。」
「ああ、それで。僕は運用車両数が少ないから…」
EF81は聞き取りをしたいのだ。
「どうだったかな。揺れた当初は僕、仙台にいたんだけど。常磐線の山下の北に引っ張り出されたんだよね。」
…そう。DE10と遅延について話していて。
水戸まで動かさなくちゃいけないって。
「機関車自体は、脱線してなくて、…機関士が見て回っていたのだけど…」
そのあと。
そう、そのあと、
「津波が、来たんだな。」
EF81の手が少し震えた。
「想定していたよりも遥かに高い津波だと訊いた。太平洋側の沿線はずっと、堤防があったはずだ。
それで食い止めることができなかったと」
「報道はずっと、津波のことばかりだ。」
どうだっけ。
どうだったかな。
「それは、思っていたよりは高かったけど…」
そう、酷い衝撃で。
「なんでそんな顔してるの?」
今もからだが痛くてたまらない。
「飾り帯のところまで?その後の話?」
その後、……そのあと?
そのあとなんて、あったっけ。
「……え?知らないよそんなの…記憶にない…」
そう、ほんとうに。そんなこと、……
………
おかしいな。
それならば。
どうしてこんなに口の中が、塩辛いのだろう。
塩水を吐いた。何回も何回も。水が出なくなったら、今度は油を吐いた。
吐いて吐いて、吐きつくして、力が抜けて起き上がれなくなった。
EF81は何も言わずに背中をさすってくれて、黙って全部片付けて出て行った。
浅い眠りに落ちて、夢を見て起きて、また眠って、を幾度繰り返したことか。
「兄さん」
目を開けると、五稜郭にいるはずのED79がそこにいた。
「なんでいるの」
「僕は元々秋田所属の車両だから。経歴に残る場所には行けることになってる。」
「青函の機関区は君の担当じゃないの」
「さっき青函トンネルの調査が終わった。一応、明日復旧する見込み。だから来た。」
弟は淡々と説明すると、急に黙り込んだ。
「……?」
ぽたぽたと、何かが落ちてきて。
「こんなの、ないよ。なんだって兄さんがこんな目に遭わなきゃいけないんだ」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、ED79は絞り出すように言った。
「…被害に遭ったのは僕だけじゃないよ」
「それはそうだけど。でも、そういうことじゃなくて」
頭を振りながら、弟は何回も、「そうじゃない」と言った。
「兄さんは、僕の兄さんだから。兄さんがつらいと僕もつらい。」
「……そう」
目を閉じた。
優しいね。
君はこんなときにだって、いつもと同じように優しい。
よいだろうか。今一度、君の優しさに溺れても。
「…て、にぎって」
「僕が眠るまででいいから」
そっと手が包み込まれた。
ひしひしと、深い眠りが浸み込んでくるのが分かった。
やがて意識は、何も見ることのない、考えることのない、心地よい闇に飲み込まれた。
***
毎日毎日苦しくてつらくて、立ち止まることも、うずくまることもあった。
それでも少しずつ、少しずつできることが増えていって。
増えていったけれど。
ただ。
自分が少しずつしか動けないでいるうちに、時間もなにもかも進んでいって。
だんだん、周りも日常を取り戻していく。
引き攣れた傷跡のように、残り続けるものはあるけれど、瓦礫は運ばれていって、堤防がまた造られて。
線路が延びていって。
あの日あのとき起こったことが、伸ばし伸ばされて、「いつものだった」日々になじんでいくのを、
ぼうっとした頭で見ていた。
怖いのは、自分もその中に混ざろうとしていること。
動けない自分と、忘れることを恐れている自分と、
『まるで、なにもなかったかのようにしゃべって、笑おうとしている自分と』
いろんな自分が分かれて、また合わさって、さらにバラバラになって。
僕はもうぐちゃぐちゃだ。
夜、旅客列車の終電が終わったあとにひとり、仙台駅の常磐線ホームに行ってみたりした。
静まり返った駅で傷をえぐり返していると、少しだけ楽になる気がした。
ある日、E5に見つかって、青い顔で泣きつかれてからは控えるようになったけれども。
怖い。
あんなにしょっちゅう入っていた、というより、そもそも僕は常磐と東北の路線を走る電機だったはずだ、
それなのに、「入らなくなった」ことに次第に慣れていくのが怖い。
壁に貼られた代行バスの時刻表にも。いつ復旧するか分からない、運休区間のお知らせの紙にも。
それがあることに、慣れてしまった。
いつか、また走る日がくるのかな。それとも、自分の引退の方が先なんだろうか。
700番台も、1000番台も、段々と数を減らしていって。
ついに、1000番台はなくなった。
今の自分に残されているのは、秋田の2両と、仙台の3両だけ。それと保存機だけ。
あんなにあったのにね。
あれから5年。6年、7年、と時が過ぎていって、次第に全線復旧の日が迫ってきて。
今度は、その日をどんな顔で迎えればいいのか、わからなくなった。
きっと。いや、絶対に、祝うべきことなんだ。
それでも、ちゃんと笑えるか、分からないよ。
…8年目を迎えた直後に、久しぶりに常磐線に入った。
なにもかも変わってしまった様子に、涙が出そうになって、だけど、空気は変わらなくて。
ますます、自分の考えがわからなくなってしまった。
***
今度の冬はずいぶんと雪が少ない。年が明けて、2020年になってからようやく、仙台には薄っすらと雪が積もった。
(やっぱり仙台は大きな街だ。秋田だって立派なものだけどさ)
寒風吹くプラットフォームから暖かな室内に戻ってきたED75は、一息つくと掲示板の置いてある片隅に足を向けた。
「…ッ」
掲示板の文字が、紙に踊る黒々とした字が、目を刺してきた。
「どうした……、……⁈」
隣から覗き込んできたEF81が、言葉を飲み込むのが分かった。
ああ。
なにか、言わないと。
僕から、なにか。
「18日から試運転だって。」
笑うべきだろうか。よかったね、と付け加えるべきだろうか。
わからないよ。もう、なにもわからない。
「…長かったね。」
「…そうだな」
EF81がむつかしい顔でこちらを見た。
「おまえには悪いが、俺は行くぞ。それが役目だからな。」
それは、彼自身に言い聞かせるようでもあった。
「一番列車の任務はきちんと果たしてくる。」
こういう態度は、正直助かる。…幾度となく、彼の性格には助けられた。
「がんばってね。」
「おう」
交直流機はちょっと表情を緩めると、肩を軽く叩いて歩いていった。
***
日中は親子連れや鉄道ファンで賑わうこの建物も、閉館からかなり時間が経ったいまとなっては、静かなものだ。
そこかしこに展示されている車両たちも、つかの間の休息時間に浸っている。
しんとした館内に、自分の足音だけが小さく響く。
いつのまにか、どういうわけか、衝動的にここに来ていた。
鉄道博物館の、本館1階ホールが見渡せる場所。
階下は闇に包まれている。窓から漏れる月明かりが、この付近の闇だけを少し、薄いものにしていた。
時折、博物館の横を通る線路から、列車の走る音が聞こえてくる。
終電が近い時刻だというのに、都会の列車はよく走る。忙しいことだ。
空気が動いた。
自分ではない誰かの気配を感じ取って、ED75は勢いよく向き直った。
青20号の制服に身を包んだ青年が、背後の休憩スペースに頬杖をついて座っていた。
「やあ、ED75。お久し振り。」
左耳に付けた鈴がちりん、と鳴った。
「……海峡」
「はい、海峡さんですよ。結構前からここにいるんだけど。なかなか気が付かなかったね。」
「六本木の展覧会に出ているという話は?」
「天鉄?」
海峡はちょっと照れた様子で笑った。
「あれね。まあ、最近はそっちにもいるんだけど。新館の工事が終わってからは大宮に出る機会が増えたからね。」
「…そうですか」
横顔が眩しい。
少しだけ羨ましくなって、ED75は目を逸らした。
「最近は大宮には来ていなかったようだけど。珍しいね。」
青い客車はのんびりとした口調で言う。
「ここの車両はもともと弟のものだったので。……来にくくて。」
ED79がいたころは、よくこちらにも来ていたのだけれど。むかしのことが懐かしくて。
「そう。それじゃあ今日は何かあったのかな。」
なにか。そう。特に大きな何かがあったというわけではない。
……でも、小さな、些細なことが毎日ちょっとずつ積み重なって。
「疲れたんですよ。……少し、疲れたんです。」
目線を上げて、すぐにまた落とした。
「…なんだか、疲れてしまった」
「おりこうさんはつらいな」
目線を上げると、相手の髪色はいつか見た、夕闇のような色に変っていた。
「日高丸…」
「俺が運んだのがいつだっけ…66年?もう50年以上も経つのか」
「その節は」
「あんまりぎゃあぎゃあ言うもんだから、曳いてきた蒸気がいつもと全然態度が違うって驚いてたな。」
こんな役柄は自分には合わない、合わないと思いながら、虚勢をはって、取り繕って、がんばってがんばって半世紀。
最盛期は300両を超えていた車両も、もう8両しかいない。
…じきにまた1両、減る。
「そうですね。あなたには最初から僕の本性は知れていた」
「…まあね。いまの車両たちは大概感づいてるみたいだけどな。」
「聡いこばかりで。困ります。僕の弱いところばかり首を突っ込んでくる」
ため息をついた。とはいえ、一度に剥がせるほど、この皮はやわくない。
長年被り続けてきたおかげで、なじんでしまっているところもあるのだから。
「今日、E657が東京から仙台に来ることになっていて、」
声が切れた。散らばった言葉を拾うあいだ、相手は黙って待っていてくれた。
「現地は、出迎えのひとたちでいっぱいで。ほんとは僕も、いるはずだったんですが」
「逃げてしまいました」
どうせ消えない傷ならば。いっそ深く抉ってしまえと。
一番つらいところに来てしまった。
本当に、どんな理由だっていいから。
ここに弟がいれば、よかったのに。
俯く。声が掠れる。
「あの地震で廃車になったのは、僕だけじゃない。DE10も、SD55も、キハ40も…他の車両だって、貨車だって何両も、
何両もだめになって。それでもみんな、みんななりに前に向かって進んでいるのに、」
「僕は前を向けない。復旧を素直に祝福できない。…祝うべきことだって、分かってはいるんだ。でも」
「つらい。つらいんだ。」
どうして自分はこんなやつなのだろう。いつだって過去にがんじがらめで、自分一人で砂泥にずぶずぶと埋もれていって。
「こんなことを考えてしまう僕がわるい、それは分かっている…それは分かっているんだ…」
「ひとそれぞれにそれぞれの苦しみと幸福がある、なんて。
あたまで分かろうとしたって、なかなか飲み込んで、かみ砕けないものだよ。」
かつて連絡船だった彼は、横に来て目線を合わせてきた。
「じぶんの苦しみはじぶんだけのものだもの。…他者の苦しみなんて、結局のところ完全な理解はできない。
推測はできるけどね。大概、わかったふうに言うひとは推測すらうまくできてやしないんだ。」
瞳の奥の闇が渦巻いて、ぐるぐると色を濃くしていくのを、しばらく見ていた。
「無理やり前に進まなくたっていい。頑張らなくたっていい。考えるのが疲れたら逃げたっていい。
時間が経ったって、解決するものばかりじゃない。少しずつ、ぼやけたものを形にして仕舞っていけばいい。」
声は出なかった。ただ、うつむいて、涙が出そうなのを堪えていた。
「仕舞っても、『それ』はなくなったわけじゃない。
そこにずっとあるんだ、出し入れの自由が少しきくようになっただけだ。それ以上でも、それ以下でもないんだ。」
でも、そうなったら、ずいぶんと楽だ、彼はそう言うと、少しだけ、笑ったようだった。
「そうですね」
こくり、と肯定すると、静かに目をつむった。
***
ふわり、とコートの裾を翻して、ED75は亘理駅の2番ホームに降り立った。
少し躊躇ってから、南側へとゆっくりと足を進めた。
とはいえ、そう長い距離ではない。あっという間に端にたどり着いた。
自分は、ここから先へは行けない。
常磐線は試運転としては、全線通行できるようになった。
3月からは、3月14日からは、運転が再開する。
でも、自分がこの先に行くことはもう、ない。
緩やかな風が、海の匂いを運んできた。
…ここから5 km先に浜吉田が、更に先に山下がある。
「…なんだかなあ、」
ホーム端の手すりにもたれかかると、ED75は天を仰いだ。
睦月の空は暗く澄み切っていて、星がちらちらと瞬いていた。
あの日がくる、前の夜と同じそら。なにもかもが変わってしまった中で、星だけが変わらずに輝いている。
息を吐く。白いもやが、広がっては消えた。
鋭い警笛の音を聞いて振り返った。
淡い紅藤色の車体が闇を切り割いて現れた。あっという間に10両の長い車体は横を駆け抜けた。
夜のハンドル訓練なのだろう、E657系はそのまま上り線の先に消えていった。
「…ああ、もう、」
手すりを掴んで、うずくまる。
涙が止まらない。
「かっこいいなあ!チクショウ、かっこいいよなあ!」
活きた車両は、それはそれは鮮やかで。
ただただ綺麗で。
…行けない。行きたくない。でも、行きたいのだ、この先に。
苦しくて、つらくて。でも、羨ましくて悔しくて仕方ないのだ。
確かに走っていたのに。この路の先を駆けていたのに。あの日までは。
あんなこと、なければよかった。その想いは変わらない。
最後まで、1039号機を真っ当に働かせてやりたかった。
たとえ、引退したあとは同じように銘板だけになる運命だったとしても、だ。
1両の機関車として、幸せな生涯を送らせてやりたかった。
今でも夢を見る。赤い幻影が常磐路を上っていく夢。夜を駆け抜けていく夢。
いまとなっては、本当のゆめまぼろしになってしまったけれど。
はるか先の水戸まで、さらに首都まで、続いているみち。
きっと、いつまでだって、この先に焦がれていきていく。
(了)
同人誌版・あとがき(原文ママ)
おひさしぶりです。すぎおとひつじです。はじめましての皆さまにおかれましては、はじめまして。
ED75が主人公の中編小説をやっとこさっとこ、書き終えることができました。
通常、彼はずいぶん動かしやすいキャラクターであり、というより勝手に動くきらいがあり、ED75中心の小説は自然に増えがちなのですが、今回はとてもとても書きにくかったです。
本来、この物語は二〇一九年の三月末、ED75が常磐線の亘理に乗り入れたところで終わる予定で、同年六月に発行するつもりでした。が、おはなしのちょうど半分くらい、彼が被災したところまで辿り着いたあと、筆が止まってしまいました。
ED75がどうダメージを受け、苦しみ、何を思い、時の経過とともにどのように変化していったのか。
分からなくなったからです。また、常磐線の復旧が目前となり、世間的に期待と祝福の空気が感じられるようになったいま、未来への希望を感じられるかというとそうでもない、絶妙に暗い物語を出す、それが果たして許容される行為なのか、考え込んでしまったという事情もありました。
私はこれまでに東日本大震災や阪神淡路大震災を主題とした擬人化作品を何作か読んだことがあります。それは、例えば…傷付きながらも復興に立ち上がる物語であったり、迷いながらも自己を確立する物語であったり、いつか繋がる日を待ち望む物語であったり、しました。いずれも、おはなしの出来に嫉妬してしまうくらい、素晴らしい物語でした。
けれどもこの物語は、ED75の物語は、それらのいずれの結末とも、違います(これから結末が描かれるかもしれない作品もありましたが、おそらく傾向は異なると思います)。
既存の物語とは違うはなしとしたい、その欲は正直に言うと、ありました。しかし、欲よりもさらに上回ったのは、弊創作のED75がこの傷を乗り越えるという状況に対してのすさまじい違和感でした。そもそも、ED75は常磐線が全線復旧しても、水戸までの運用が復活するかわかりません。車両数は震災前よりも減少し、直近では先行きが不透明な保存機もあります。きょうだいぶんの交流機たちもずいぶん数を減らしました。加えて、弊創作の「彼」はスッパリと物事を切り替えられるたちではありません。いつまでも過去を引きずり、傷を抉り返しもがき苦しむ、そんなキャラクターです。
で、あるからして、美しく復旧を祝って幕を閉じる、それができる気がしませんでした。
本文の中で言及したことでもあるのですが、苦しい記憶は消し去ってしまいたいものです。
一方で、忘れ去ること、自分の中で風化していくという事実そのものも、苦しみの原因であったりします。
忘却して楽になってしまってよいのか。思い出さないことは、「それ」を軽んずる行為ではないのか。
こんな自分が明るく笑って生きていてよいのか。
これは創作です、前を向いてきれいに終わってもよかったそれでも私はそう書きたくなかった。
常磐線の全線復旧はある種、「被災後」の区切りになるのかもしれませんが、
そしてそれが救済になることもあると思います、ただ、このような物語があってもよいと考えました。
とはいうものの、この物語の最後の項は未来を描いたものですので、もしかすると現実は少し変わるその可能性もございます。その場合は、漫画版では小説版と異なる結末をとる、かもしれません。
ここまでED75の物語を追ってくださいまして、誠にありがとうございます。
よろしければ、また、次の物語にて、お会いしましょう。
すぎおとひつじ(サークル:林+鉄)