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​◎1039
ED75_1039_7.png

東日本大震災と常磐線上で被災したED75の物語です。

​災害の直接的な描写がございます。

2020.08.23 追記:
過激なシーンがあるわけではないのですが、感情移入しやすい話のつくりになっている
(気がする)ので、体調が悪いときに読むとメンタルがやられます。筆者の私がヤバい
って感じたので違いないです。
体調と相談しつつお読みください。

 

 

 

 遠く、東京では桜の蕾が綻びつつあるとはいうが、こちらの三月の夜は吐息が色づくほど寒い。仙台駅常磐線ホームの蛍光灯を眺めながら、ED75は少しだけ身震いをした。

「大丈夫ですか?」

隣に立つE5が心配そうな視線を送ってくるのに気が付かないふりをして、ED75は

「大丈夫」

と、短く言った。

「亘理はすぐそこだし。僕、最近は客車牽引の臨時以外、入るの短い距離だから。」

「…そういうことじゃないの、分かっているでしょう、」

碧い新幹線は腕を組んだ。

「八年ぶりじゃないですか。貴方が常磐線に入るのは。」

「そうだね」

「……」

暫しの沈黙が流れた。E5が何事か言おうとするのを遮って、ED75は笑いかけた。

「そろそろ出発の時間だから。ありがとう、見送りに来てくれて。」

そのまま、くるりと向きを変えて。ED75はホームから消え去った。

「ああ、なんで貴方はそんなにずるいんだ」

E5は顔を押さえて、しゃがみ込んだ。

「僕はED79さんから頼まれているのに…」

闇夜に星が一つ、また一つと瞬いた。

「本当に、何事もないといいんですけれど…」

 

***

 

2011年、春。

「二日からしばらく、常磐線の方に出るからね。」

ホワイトボードに一ヵ月の予定を書き込みながら、ED75はにこやかにそう言った。

「1039号機?運用に復帰するのか。」

EF81は運行表を覗き込みながら、ちょっと意外そうに言った。

「運用離脱するのかと思ってたけど、検査中なんだな。」

「うん。今、台車を診ていて。明後日試運転。」

大きく矢印を書くと、重要な項目に線を引っ張っていく。

「そうかー。まあ、こっちは俺とEH500で回しとくから。心置きなく常磐で暴れてくれ。」

「頼むよ。」

あらかたボードに記述し終わると、ED75はペンを回しながら部屋を出て行った。

「…めっちゃ機嫌よさそうでしたね、75先輩。」

EH500が扉に目をやりながら、呟いた。

「まあ、1039号機はあいつのラストナンバーだからな。思い入れもあるんだろ。」

「僕、あんなに機嫌よさそうな先輩見たの初めてですよ。」

結った長髪を振って、長身の赤い機関車は目を薄く開けた。

「いいことを教えてやろう。ED75はED79の話を振れば機嫌がいいぞ。」

「それ、逆に地雷も埋まってるやつですよね!知ってますよ!」

「それが読めるなら一人前だな。」

EF81は笑いながらペンを手に取った。

「予定書いてくからメモ取れよ。来月はちょっと変則的だかんな。」

 

***

 

「まさか沿線火災とはね…」

配線図と運行ダイヤを睨みながら、ED75は動いている車両の様子を伺った。

「92列車、1時間の遅延…牽引機は1039号機、か。」

「だいぶ遅れているな。」

DE10が、背後から覗き込んできた。

「旅客との調整はどうなってる?」

「E721が来たよ。とりあえず、こちらが遅らせることで決着を付けた。まあ、僕も列車は水戸まで動かさなきゃいけないから、さっき送り出したけど。」

「ご苦労さんです。今どの辺?」

一瞬目を閉じて、車窓を確認する。

「んー…この感じだと、浜吉田を過ぎたくらい?」

視界の外れで、壁にかかった時計の秒針が、カチリと音を立てて動いた。

 

「……?」

DE10がちょっと怪訝そうな顔で、上を見た。

「何?」

「揺れてないか?」

「地震?」

確かに、ゆらゆらと、地が震えている。

次第に、いや、急激に揺れが大きくなっている。

立っていられない、意識を固定できないほどの、

「おい、棚から離れろ!」

横を向くと、本が雪崩のようにこちらに崩れおちてくるのが見えた。

 

耳鳴りがした。

何か、何かが奥底で、ざわめいている。警鐘を鳴らしている。

ぐい、と引っ張り戻されて、ED75は意識を取り戻した。

「…山下の北?」

いつもと同じように、風が潮の香りを運んできた。

無線に耳を澄ます。どうやら、全ての車両の運行が止まっているらしい。

背後を確認して、ED75は凍り付いた。

「どんだけ大きい地震だったんだよ…」

レールが、海とは反対方向に動いてしまっている。本来、ここは直線のはずなのに、貨車が妙にゆがんで並んでいた。

「機関車は脱線…、はしてないかな」

機関士が外に出て、確認しに行くのが見えた。壁に手を触れる。急停止はしたものの、車両本体の機器に異常はないようだった。

少しホッとして、外に出た。周りをぐるぐると巡って、足回りの確認をする。車輪は落ちることなく、しっかりと線路の上に乗っていた。

(宮城沖で偶にあるやつか…前回の大きいのが2005年だから、…6年前?)

(それにしても、レールがズレるとは…78年の地震も何日か止まったけど、復旧にどれくらいかかるだろう…)

 

「……」

「……」

「……ッ!」

 

背筋に寒気が走って、振り向いた。

海が鳴っている。

水平線が膨らんで、一気にこちらに迫ってきている。

ビニールハウスも、小屋も、全部巻き込んで、視界が黒く染まっていく。

津波だ。

バタン、と音がして、運転室のドアが閉まった。

周囲は水田。山まですぐに走れるとも思えない。機関車の高さを考えれば、悪い考えではないのかもしれない。そもそも、線路は海岸から2km以上離れているのだ。

足元まで来たとしたって、大した波ではないだろう…。

そう考えて顔を上げた。

「え」

青黒い壁がすぐそこにあった。

次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を襲った。

飛びそうになる意識をなんとか捕まえて、目を凝らした。

潮の向こうに、今よりも遥かに大きな壁を見た。

(逃げちゃだめだ、動いちゃだめだ、ここで僕が離れたら。機関士はどうなるんだ)

台車に背を押し付けて、歯を食いしばったところまでは覚えている。

 

***

 

目を開けると、見覚えのある天井があった。

何度か瞬きをして、どこだろう、と思った。

意識にもやがかかって、うまく考えがまとまらない。

「…なんだ。秋田の僕の部屋じゃないか」

聞こえた自分の声は、なんだか妙にかすれていた。

「そうだよ。おまえの部屋だ。」

EF81が視界の端に映ったので、体を起こした。

「無理に起きなくていいぞ」

「……別にいいよ。なにがあったのさ?」

赤い電気機関車はため息をついた。

「一昨日宮城沖で強い地震があったろ。皆で常磐線に入ったおまえのことを心配してたら、夜遅くにいきなり戻ってきて倒れ込んで。新幹線のちびは泣くし、大騒ぎになったんだぞ。」

「………全然覚えてないんだけど」

額に手を当てる。ひどく頭が重い。

「そういえば君は東京に出てなかったっけ?」

「関東も、というよりJR東の路線は全て止まってな。あの日は田端も大変なことになった。まあ、関東は昨日から動いているからな、今は秋田にいる。それに、ちびが泣いて頼んでくるもんだからな。」

「…君、E6に甘くない?」

「俺の後輩じゃありませんしーそれにE3は厳しく躾けてるみたいだからー」

そう軽口を叩いた後で、EF81は真面目な顔に戻って言った。

「一昨日のこと、思い出せるか。常磐線、仙谷線、石巻線、山田線、気仙沼線、大船渡線、それに三陸鉄道と仙台臨海鉄道が津波で滅茶苦茶だ。直撃を受けた車両に事情聴取してはいるが、なにしろ被害範囲が広大だから、状況がよくわかっていなくて。あとは機関車が忙しくて、DE10なんか3両逝ったのに連日出ずっぱりで吐きながら仕事してる。」

「ああ、それで。僕は運用車両数が少ないから…」

EF81は聞き取りをしたいのだ。

「どうだったかな。揺れた当初は僕、仙台にいたんだけど。常磐線の山下の北に引っ張り出されたんだよね。」

…そう。DE10と遅延について話していて。

水戸まで動かさなくちゃいけないって。

「機関車自体は、脱線してなくて、…機関士が見て回っていたのだけど…」

そのあと。

そう、そのあと、

「津波が、来たんだな。」

EF81の手が少し震えた。

「想定していたよりも遥かに高い津波だと訊いた。太平洋側の沿線はずっと、堤防があったはずだ。それで食い止めることができなかったと」

「報道はずっと、津波のことばかりだ。」

どうだっけ。

どうだったかな。

「それは、思っていたよりは高かったけど…」

そう、酷い衝撃で。

「なんでそんな顔してるの?」

今もからだが痛くてたまらない。

「飾り帯のところまで?その後の話?」

その後、……そのあと?

そのあとなんて、あったっけ。

「……え?知らないよそんなの…記憶にない…」

そう、ほんとうに。そんなこと、……

………

おかしいな。

それならば。

どうしてこんなに口の中が、塩辛いのだろう。

 

塩水を吐いた。何回も何回も。水が出なくなったら、今度は油を吐いた。

吐いて吐いて、吐きつくして、力が抜けて起き上がれなくなった。

EF81は何も言わずに背中をさすってくれて、黙って全部片付けて出て行った。

 

浅い眠りに落ちて、夢を見て起きて、また眠って、を幾度繰り返したことか。

「兄さん」

目を開けると、五稜郭にいるはずのED79がそこにいた。

「なんでいるの」

「僕は元々秋田所属の車両だから。経歴に残る場所には行けることになってる。」

「青函の機関区は君の担当じゃないの」

「さっき青函トンネルの調査が終わった。一応、明日復旧する見込み。だから来た。」

弟は淡々と説明すると、急に黙り込んだ。

「……?」

ぽたぽたと、何かが落ちてきて。

「こんなの、ないよ。なんだって兄さんがこんな目に遭わなきゃいけないんだ」

ぼろぼろと涙をこぼしながら、ED79は絞り出すように言った。

「…被害に遭ったのは僕だけじゃないよ」

「それはそうだけど。でも、そういうことじゃなくて」

頭を振りながら、弟は何回も、「そうじゃない」と言った。

「兄さんは、僕の兄さんだから。兄さんがつらいと僕もつらい。」

「……そう」

目を閉じた。

優しいね。

君はこんなときにだって、いつもと同じように優しい。

よいだろうか。今一度、君の優しさに溺れても。

「…て、にぎって」

「僕が眠るまででいいから」

そっと手が包み込まれた。

ひしひしと、深い眠りが浸み込んでくるのが分かった。

やがて意識は、何も見ることのない、考えることのない、心地よい闇に飲み込まれた。

 

***

 

毎日毎日苦しくてつらくて、立ち止まることも、うずくまることもあった。

それでも少しずつ、少しずつできることが増えていって。

増えていったけれど。

ただ。

自分が少しずつしか動けないでいるうちに、時間もなにもかも進んでいって。

だんだん、周りも日常を取り戻していく。

引き攣れた傷跡のように、残り続けるものはあるけれど、瓦礫は運ばれていって、堤防がまた造られて。線路が延びていって。

あの日あのとき起こったことが、伸ばし伸ばされて、「いつものだった」日々になじんでいくのを、ぼうっとした頭で見ていた。

怖いのは、自分もその中に混ざろうとしていること。

動けない自分と、忘れることを恐れている自分と、

『まるで、なにもなかったかのようにしゃべって、笑おうとしている自分と』

いろんな自分が分かれて、また合わさって、さらにバラバラになって。

僕はもうぐちゃぐちゃだ。

 

夜、旅客列車の終電が終わったあとにひとり、仙台駅の常磐線ホームに行ってみたりした。静まり返った駅で傷をえぐり返していると、少しだけ楽になる気がした。

ある日、E5に見つかって、青い顔で泣きつかれてからは控えるようになったけれども。

 

怖い。

あんなにしょっちゅう入っていた、というより、そもそも僕は常磐と東北の路線を走る電機だったはずだ、それなのに、「入らなくなった」ことに次第に慣れていくのが怖い。

壁に貼られた代行バスの時刻表にも。いつ復旧するか分からない、運休区間のお知らせの紙にも。それがあることに、慣れてしまった。

いつか、また走る日がくるのかな。それとも、自分の引退の方が先なんだろうか。

700番台も、1000番台も、段々と数を減らしていって。

ついに、1000番台はなくなった。

今の自分に残されているのは、秋田の2両と、仙台の3両だけ。それと保存機だけ。

あんなにあったのにね。

 

あれから5年。6年、7年、と時が過ぎていって、次第に全線復旧の日が迫ってきて。

今度は、その日をどんな顔で迎えればいいのか、わからなくなった。

きっと。いや、絶対に、祝うべきことなんだ。

それでも、ちゃんと笑えるか、分からないよ。

…8年目を迎えた直後に、久しぶりに常磐線に入った。なにもかも変わってしまった様子に、涙が出そうになって、だけど、空気は変わらなくて。

ますます、自分の考えがわからなくなってしまった。

 

***

 

今度の冬はずいぶんと雪が少ない。年が明けて、2020年になってからようやく、仙台には薄っすらと雪が積もった。

(やっぱり仙台は大きな街だ。秋田だって立派なものだけどさ)

寒風吹くプラットフォームから暖かな室内に戻ってきたED75は、一息つくと掲示板の置いてある片隅に足を向けた。

「…ッ」

掲示板の文字が、紙に踊る黒々とした字が、目を刺してきた。

「どうした……、……⁈」

隣から覗き込んできたEF81が、言葉を飲み込むのが分かった。

ああ。

なにか、言わないと。

僕から、なにか。

「18日から試運転だって。」

笑うべきだろうか。よかったね、と付け加えるべきだろうか。

わからないよ。もう、なにもわからない。

「…長かったね。」

「…そうだな」

EF81がむつかしい顔でこちらを見た。

「おまえには悪いが、俺は行くぞ。それが役目だからな。」

それは、彼自身に言い聞かせるようでもあった。

「一番列車の任務はきちんと果たしてくる。」

こういう態度は、正直助かる。…幾度となく、彼の性格には助けられた。

「がんばってね。」

「おう」

交直流機はちょっと表情を緩めると、肩を軽く叩いて歩いていった。

 

日中は親子連れや鉄道ファンで賑わうこの建物も、閉館からかなり時間が経ったいまとなっては、静かなものだ。そこかしこに展示されている車両たちも、つかの間の休息時間に浸っている。しんとした館内に、自分の足音だけが小さく響く。

いつのまにか、どういうわけか、衝動的にここに来ていた。

鉄道博物館の、本館1階ホールが見渡せる場所。

階下は闇に包まれている。窓から漏れる月明かりが、この付近の闇だけを少し、薄いものにしていた。

時折、博物館の横を通る線路から、列車の走る音が聞こえてくる。終電が近い時刻だというのに、都会の列車はよく走る。忙しいことだ。

 

空気が動いた。

自分ではない誰かの気配を感じ取って、ED75は勢いよく向き直った。

青20号の制服に身を包んだ青年が、背後の休憩スペースに頬杖をついて座っていた。

「やあ、ED75。お久し振り。」

左耳に付けた鈴がちりん、と鳴った。

「…海峡」

「はい、海峡さんですよ。結構前からここにいるんだけど。なかなか気が付かなかったね。」

「六本木の展覧会に出ているという話は?」

「天鉄?」

海峡はちょっと照れた様子で笑った。

「あれね。まあ、最近はそっちにもいるんだけど。新館の工事が終わってからは大宮に出る機会が増えたからね。」

「…そうですか」

横顔が眩しい。

少しだけ羨ましくなって、ED75は目を逸らした。

「最近は大宮には来ていなかったようだけど。珍しいね。」

青い客車はのんびりとした口調で言う。

「ここの車両はもともと弟のものだったので。…来にくくて。」

ED79がいたころは、よくこちらにも来ていたのだけれど。むかしのことが懐かしくて。

「そう。それじゃあ今日は何かあったのかな。」

なにか。そう。特に大きな何かがあったというわけではない。でも、小さな、些細なことが毎日ちょっとずつ積み重なって。

「疲れたんですよ。…少し、疲れたんです。」

目線を上げて、すぐにまた落とした。

「…なんだか、疲れてしまった」

「おりこうさんはつらいな」

目線を上げると、相手の髪色はいつか見た、夕闇のような色に変っていた。

「日高丸…」

「俺が運んだのがいつだっけ…66年?もう50年以上も経つのか」

「その節は」

「あんまりぎゃあぎゃあ言うもんだから、曳いてきた蒸気がいつもと全然態度が違うって驚いてたな。」

こんな役柄は自分には合わない、合わないと思いながら、虚勢をはって、取り繕って、がんばってがんばって半世紀。最盛期は300両を超えていた車両も、もう8両しかいない。

…じきにまた1両、減る。

「そうですね。あなたには最初から僕の本性は知れていた」

「…まあね。いまの車両たちは大概感づいてるみたいだけどな。」

「聡いこばかりで。困ります。僕の弱いところばかり首を突っ込んでくる」

ため息をついた。とはいえ、一度に剥がせるほど、この皮はやわくない。長年被り続けてきたおかげで、なじんでしまっているところもあるのだから。

「今日、E657が東京から仙台に来ることになっていて、」

声が切れた。散らばった言葉を拾うあいだ、相手は黙って待っていてくれた。

「現地は、出迎えのひとたちでいっぱいで。ほんとは僕も、いるはずだったんですが」

「逃げてしまいました」

どうせ消えない傷ならば。いっそ深く抉ってしまえと。

一番つらいところに来てしまった。

本当に、どんな理由だっていいから。

ここに弟がいれば、よかったのに。

俯く。声が掠れる。

「あの地震で廃車になったのは、僕だけじゃない。DE10も、SD55も、キハ40も…他の車両だって、貨車だって何両も、何両もだめになって。それでもみんな、みんななりに前に向かって進んでいるのに、」

「僕は前を向けない。復旧を素直に祝福できない。…祝うべきことだって、分かってはいるんだ。でも」

「つらい。つらいんだ。」

どうして自分はこんなやつなのだろう。いつだって過去にがんじがらめで、自分一人で砂泥にずぶずぶと埋もれていって。

「こんなことを考えてしまう僕がわるい、それは分かっている…それは分かっているんだ…」

「ひとそれぞれにそれぞれの苦しみと幸福がある、なんて。あたまで分かろうとしたって、なかなか飲み込んで、かみ砕けないものだよ。」

かつて連絡船だった彼は、横に来て目線を合わせてきた。

「じぶんの苦しみはじぶんだけのものだもの。…他者の苦しみなんて、結局のところ完全な理解はできない。推測はできるけどね。大概、わかったふうに言うひとは推測すらうまくできてやしないんだ。」

瞳の奥の闇が渦巻いて、ぐるぐると色を濃くしていくのを、しばらく見ていた。

「無理やり前に進まなくたっていい。頑張らなくたっていい。考えるのが疲れたら逃げたっていい。時間が経ったって、解決するものばかりじゃない。少しずつ、ぼやけたものを形にして仕舞っていけばいい。」

声は出なかった。ただ、うつむいて、涙が出そうなのを堪えていた。

「仕舞っても、『それ』はなくなったわけじゃない。そこにずっとあるんだ、出し入れの自由が少しきくようになっただけだ。それ以上でも、それ以下でもないんだ。」

でも、そうなったら、ずいぶんと楽だ、彼はそう言うと、少しだけ、笑ったようだった。

「そうですね」

こくり、と肯定すると、静かに目をつむった。

 

***

 

ふわり、とコートの裾を翻して、ED75は亘理駅の2番ホームに降り立った。少し躊躇ってから、南側へとゆっくりと足を進めた。

とはいえ、そう長い距離ではない。あっという間に端にたどり着いた。

自分は、ここから先へは行けない。

常磐線は試運転としては、全線通行できるようになった。

3月からは、3月14日からは、運転が再開する。

でも、自分がこの先に行くことはもう、ない。

緩やかな風が、海の匂いを運んできた。

…ここから5 km先に浜吉田が、更に先に山下がある。

「…なんだかなあ、」

ホーム端の手すりにもたれかかると、ED75は天を仰いだ。

睦月の空は暗く澄み切っていて、星がちらちらと瞬いていた。

あの日がくる、前の夜と同じそら。なにもかもが変わってしまった中で、星だけが変わらずに輝いている。

息を吐く。白いもやが、広がっては消えた。

 

 鋭い警笛の音を聞いて振り返った。淡い紅藤色の車体が闇を切り割いて現れた。あっという間に10両の長い車体は横を駆け抜けた。夜のハンドル訓練なのだろう、E657系はそのまま上り線の先に消えていった。

「…ああ、もう、」

手すりを掴んで、うずくまる。

涙が止まらない。

「かっこいいなあ!チクショウ、かっこいいよなあ!」

活きた車両は、それはそれは鮮やかで。

ただただ綺麗で。

…行けない。行きたくない。でも、行きたいのだ、この先に。

苦しくて、つらくて。でも、羨ましくて悔しくて仕方ないのだ。

確かに走っていたのに。この路の先を駆けていたのに。あの日までは。

 

あんなこと、なければよかった。その想いは変わらない。

最後まで、1039号機を真っ当に働かせてやりたかった。たとえ、引退したあとは同じように銘板だけになる運命だったとしても、だ。1両の機関車として、幸せな生涯を送らせてやりたかった。

今でも夢を見る。赤い幻影が常磐路を上っていく夢。夜を駆け抜けていく夢。

いまとなっては、本当のゆめまぼろしになってしまったけれど。

 

はるか先の水戸まで、さらに首都まで、続いているみち。

きっと、いつまでだって、この先に焦がれていきていく。

 

(了)

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