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​◎海峡を越えて(小説版)
外伝1 モガリ
モガリ表紙.png

2015年7月14日午前3時10分、函館

 

真夜中の海は暗く、波止場へ波が、誘い込むように打ち寄せていた。雲の切れ間から細い二十七日の月が、東の空にかかっているのが見える。沖にはイカ釣り船の光が点々と輝いているけれど、函館港の諸々は今なお、深い眠りについていた。

「毎年毎年こんな時間からご苦労なことだよ。」

保存船のタラップを降りてきた摩周丸は、海峡に缶コーヒーを渡した。7月とはいえ、北の地の夜は上着が欲しくなるほどには寒い。

「もうすぐ上りのはまなすが来るからね。…約束だし。」

ため息とともに海峡はプルタブに手を掛ける。

「あれから70年も経つなんてね。ちょっと信じられないな…。」

序章 玉音放送

 

 その日は朝から曇天が広がっていた。霧のような雨の後も、気温はほとんど上がらなかった。八月にしては肌寒い日だった。

 正午の七重浜は、人ひとりおらず、静まり返っていた。陛下の詔が直々にラジオ放送されるとあって、皆、町々の集会場へ足を運んでいたからだ。張り詰めた空気の中、時刻を告げるサイレンが鳴った。

 沖に船体が折れ曲がった船が一隻、座礁したまま放置されていた。舳先は歪み、構造物は滅茶滅茶に破壊され、全く酷い状態だが、船首には「松前丸」との文字が読み取れた。

正午を少し回って、その船の上に突如、人影が現れた。

煤けた蒼い髪の青年は、色々なものが散乱した甲板の上を、迷うことなく進んで、扉をずかずかと開けて船橋に登っていった。

 

「おい」

操舵室の中に足を踏み入れて、青年は言った。

「終わったぞ」

「…そろそろ頃合だとは思っていた、」

真っ黒に焦げた壁際から、掠れた声が返ってきた。

ひどく顔色の悪い黒髪の青年が、壁にもたれて座っていた。

「亞庭丸が沈んだのは十日だったか」

「そうだ」

「航路転属させて船を入れたところで、片端から沈められるのではな、」

独り言のように呟いて、青年は一言だけ付け加えた。

「…津輕丸。」

「狐越岬の東で沈んだが」

「そういうことを言っているんじゃないよ…それはもう知っている」

割れた窓から、日が差し込んで、一瞬、へたり込んでいる青年の体を照らし出した。

全身にべっとりと真っ黒い液体がこびり付き、下半身が曲がってはいけない方向に歪んでいるのが見て取れた。

…彼はこの場から動けないのだ。

蒼髪の青年は眉一つ動かさずに相手の状態を眺めていたが、再び相手の体の上に影が落ちると近寄って、正午の放送について話し始めた。

 

第一章 大正十二年、長崎

 

溶接の匂いが漂う造船工場の片隅で、彼は目を覚ました。瞼をパチパチとしばたたかせ、指を曲げ伸ばして感覚を確かめる。どうやら、半日ほど眠ってしまっていたようだった。

靴の踵をとん、と叩いて立ち上がり、大きく伸びをする。固まった体が小気味よい音を立てて鳴った。

頭を上げると、大きな窓越しに沈みかけている西日が見えた。開け放しの出入口から、夏の夕刻の風が静かに吹き込んでいる。そのまま外に足を伸ばすと、クチナシの香りがどこからか、漂ってきた。

(起工から十日。造船所内をうろつくのも、存外飽きてきた。)

竣工は来年の秋頃の予定だ。次の週からは汽船としての教育を受けることになるとはいえ、

進水式あたりまでは時間をだいぶ持て余すことになるだろう。

「青函か…遠いところまで行くものだよ、ドック入りでも戻ってはこれないだろうな」

彼、こと、松前丸は遠くの赴任地を思うと、そう独り言ちた。

船渠を覗いて船体の建造具合を眺め、てくてくと当てもなくうろついていると、隣の船渠

に行きついた。そういえば、同日に起工した同型船があると、聞いた覚えがある。起工か

ら同じく十日しか経過していないため、船体の多くはまだ組みあがっていないが、そこかしこに自分と同じ特徴を、見てとることができた。

「おい。ひとのドックで何をやっているんだ。」

全く予測していない方向から声を掛けられて、松前丸は肩を震わせた。勢いよく振り返ると、自分と同じくらいの背丈のひとが、難しい顔をして立っていた。

「え…?」

戸惑ったのは、背丈だけでなく、格好も自分とよく似ていたからだ。それは、松前丸が困惑しているのを見ると、途端に表情を一変させて笑った。

「冗談だよ。初めまして、松前丸。私は同型船の津輕丸だ。」

「津輕丸…」

「そう。青函連絡に入る鉄道省の船。私が同型船の第三船で、おまえが第四船だから、私の弟ということになるのかな?」

津軽丸はそこまで言い切ると、手を伸ばしてきて「握手」と言った。手を差し出すと、自分から掴んできて、組んだ手をぶんぶんと降り回した。

「これからよろしく?」

「…よろしく頼む。」

「硬いなあ。もうちょっと柔らかくいこうぜ、柔らかく。」

津軽丸はそう言うと。勢いよく手を放して、軽快に笑った。

 

(ずいぶんと表情がよく変わるふねだ。)

松前丸は帳面に筆を走らせている津軽丸の横顔を盗み見ると、そう心の中で独り言ちた。

時にはしかめ面を、時には朗らかに、また、時にはよほど計算が上手くいったのか、ニコニコと笑みをこぼしながら、いずれにしても真剣に、書付けている。

(真面目なんだか、不真面目なんだか。)

講義のときはこまめに話を書き付け、活発に質問をする。…終わった途端、どこかに消えて、夜遅くまで遊んでいるらしいのだが。切り替えができているといえば、素晴らしくできているのかもしれない。

自分は毎日、講習に付いていくだけで精一杯だ。復習をしないとどうにもならないし、それだけで疲れ果てて、寝てしまう。見習いたくはないが、少しだけ、姉のことが羨ましい。

「ん?松前、どうかした?」

視線に気が付いたのか、津軽丸がこっそりと落ちた鉛筆を拾うふりをして、訊いてきた。…そんな頭の回り用も、癪に障るくらい艶やかに映る。

「…なんでもないよ」

松前丸は、ぷい、と目を逸らすと、帳面をめくった。

 

時はめまぐるしく過ぎ去り、木の葉が色づいて寒風が吹き、花が咲いて再びの夏、そして秋が巡ってきた。次の週には、津軽丸はもう函館へと旅立つ。

「寂しかったら電信でも打ってくれ。まあ、返事するか分からないけど」

夕刻、電信柱の影を踏み踏み、姉は楽しそうに言った。いつだって津軽丸は楽しそうだ、と松前丸は思った。それにしたって、返事するか分からないとは、随分と酷い態度ではないだろうか。

「別に寂しくなんてない。…そもそも、ひと月先には俺だって函館へ行くんだ。」

「硬いなあ。松前は。」

「だからおまえが言う硬いってなんなんだ。」

睨みつけると、津軽丸はいつもと同じようにまた笑った。

「大体、おまえは遊びすぎなんだ。毎夜毎夜、花街に出掛けては、わけの分からない女物の服を羽織って帰ってくる。俺の気にもなってくれ。」

「姐さんたちが優しいのさ。おまえも行けば分かるよ。」

「行くもんか。なんだってこんなやつが俺の姉なんだ。」

愚痴るようにこぼしても、相手はくるくるといたずらに表情を変えるだけ。暖簾に腕押し、糠に釘、全く手ごたえを感じない。

「なあ松前。青函に入る車両渡船は、私たち4きょうだいが初めてだ。」

楽しそうに、実に楽しそうに、津軽丸は言った。

「私たちが青函航路を変えるんだ。なんて愉快なんだろう。」

こちらを振り返る。横顔を夕日が照らしこんで、色白の肌を色づかせた。

「そうだな」

笑顔に押し切られる形で、いいやと言えない自分に呆れながらも、松前丸は呟いた。

 

 

第二章 軍靴の音

 

「今度の勤務明けに静と森屋に行くんだが、着いてきてくれないか。松前、おまえ、来週の木曜は待機だろう。」

二段寝台の上段で本をめくっていた松前丸は、津軽丸の方を見やると、渋い顔をした。

「断る。おまえの道楽に俺を巻き込むなと言っているだろう。」

「静がドック入りで函館に来るんだよ。久し振りに森屋を見物したいというから連れていくんだ。午前十時に控室に集合な。ソーダ水くらいはおごるよ。」

「おい、津輕…」

文句を言う暇もなく、下段からは微かな寝息が聞こえてきた。

「………」

梯子を下りる。寝台を覗き込むと、双子の姉は、実に安らかな顔をして眠っていた。

「勝手なやつ」

一瞬布団を剥ごうとした手をまた引っ込めて、松前丸は傍に掛かっている外套を掴むと、頭を振りながら部屋を出て行った。

 

昭和八年。元日から日本軍が中華民国軍と山海関で衝突し、治安維持法違反で著名な学者が検挙されるなど、新年早々から漂っていた不穏な空気は、三月の末に入っても消えることがなかった。国際連盟の脱退をもって、世の人のおまつり騒ぎのような感覚は最高潮に達し、どことなく誰もかれも浮足立ったような雰囲気の中、改元から7度目の春が来た。

 恐慌によって落ち込んだ旅客輸送量もようよう回復し、4隻の貨客船と2隻の貨物船による輸送体制が整った青函航路では、連絡船たちがこの世の春を謳歌していた。

 

「松前?やけにこざっぱりとした格好じゃないか、どうしたんだい」

補助汽船の湯島丸に声を掛けられた松前丸は、不機嫌そうな顔を彼に向けた。

「今日の俺は荷物持ちだ、何も楽しいことなんかないよ。」

「……また津輕に振り回されてるのか、お気の毒さま。」

小柄な補助汽船は同情するように笑うと、軽く肩を叩いて行ってしまった。

(…結局、断れなかった)

時計の針を睨みながら、10時を待つ。もう長い針が、頂点に届きそうだ。

(時刻まできっちり指定してきたくせに。ほんとに、勝手なやつ…)

「松前!」

カツカツ、と軽快に靴を鳴らして。嵐のように津軽丸が現れた。後ろには静丸を連れている。

「待ったか?待ったな?すまない。」

「…待ってないよ。」

立湧の文様に麻葉の帯。頭には小さな花飾り。つま先から頭のてっぺんまで、どこにやってもおかしくないような洒落た娘姿。いつもの制服姿からは想像もつかないようないでたちだ。…とは思うものの、褒めれば相手が調子に乗ることは間違いないので、何も言わない。

「静。松前だ。」

「あら。松前丸。函館ではお久し振り。」

「数日前、青森で会ったばかりじゃないか…」

「そう言わず。」

静丸は小首を傾げて、コロコロと笑った。

 

午後三時過ぎ。森屋百貨店に入っている喫茶店の一角で、テーブルに伏せてへたりこんでいる松前丸の姿があった。隣では津軽丸と静丸が楽しそうに談笑している。

(朝から今まで、歩き通しだ、よく体力が持つな…)

呉服屋やら靴屋やら小間物屋やら、ぐるぐると連れまわされて正直疲れ果てた。航行しているときよりも疲れている気がするのはなぜだろう。

宣告通り、津軽丸に買ってもらったソーダ水を啜る。今日ばかりはこの冷たさが心地よい。

「松前」

「なんだ。俺はもう帰りたい。」

「最後に書店に寄ろう。」

「書店?」

「書店。…今日、連れまわしたから。なんでも好きな本を買ってあげる。」

ガバリと体を起こして、松前丸は津軽丸の顔を見た。

津軽丸は笑って、

「これくらいはね?」

と言った。

「行く?」

「行く」

 

買ってもらったばかりの本が入った紙袋は、実に幸福な重みがある。

小脇に本を抱えて、松前丸は前の二人の後を追った。

あと少し、進めば、もうそこは函館駅だ。

「…!」

急に津軽丸が止まったので、松前丸は彼女にぶつかりそうになった。

「津輕、急に止まるなよ…津輕?」

目の前に、駅前の喧騒とは種類が違う人垣ができていた。

「止まっちゃだめ、歩いて」

静丸の妙に焦った囁きに、焦燥感を覚えて、松前丸は津軽丸の腕を引っ掴んで、人垣から離れた。

 

「なんだったんだ?」

連絡船控室に戻ったあと、暗い顔の二人を見て、松前丸は問うた。

「人が捕まってたのよ…警察と、たぶんあれは、特高ね。」

静丸が、難しい顔をして言った。

「あの顔は見たことがある…何回か、駅前で運動をやっていた。たぶん、内地からやってきたのだろうが。ここで捕まったのか…。」

津軽丸が苦々しげに吐いた。

「特高が張っているということは、治安維持法あたりの違反で引っ張られるだろうな。…このところ、そんなことばかりだ、私は世間がどんどんよくない方に転がっている気がしてならないよ」

「この海峡を通るのは、日本の船ばかりじゃない。ひとたび何か起こってしまえば…その火の粉は、我々に降りかかってくるだろうな。」

 

翌、昭和九年十二月。日本はワシントン海軍軍縮条約廃棄を米国に通告する。一日、一日と濃くなる硝煙の香りは。さらに翌々年の二月二十六日に、白銀の帝都で爆発することになるのであった。

 

 

第三章 坂道を転がるように

 

 昭和十二年七月。盧溝橋事件を発端として、日本、中華民国間に戦争が勃発した。いわゆる日中戦争である。時の首相である近衛文麿は、政・財・報道関係者の協力を取り付け、治安維持を強化するだけでなく、軍需産業優先の経済統制を行うために、「軍需工業動員法の適用に関する法律」「臨時資金調整法」「輸出入品等臨時措置法」を成立させた。一方で、国民に対しては〈挙国一致・尽忠報国・堅忍持久〉を目標とする国民精神総動員実施要綱を閣議決定して、日本精神や敬神思想の発揚を主眼とする運動を開始した。新聞・雑誌・ラジオといった各メディアは、こぞってこの運動に参加した。北海道地域も例外ではなかった。

 昭和十二年の函館市広報を見てみよう。八月二十日には早速、「函館市出征軍人援護会設立」の記事が掲載されている。翌月には「愛国運動並びに愛国行進」が開催。十月には「海戦捷祝賀旗行列」を挙行。また、しばしば、総動員に関する協議会が開かれ、「防空だより」も発行されるなど、じわじわと戦争の色は生活に滲むようにして広がっていった。

 第一次大戦の時と同様、船舶が不足し、海上輸送から鉄道輸送への転換が生じたために、青函の貨物輸送量は年20%増の勢いで成長を続けた。開戦以前は連絡船6隻、日9往復での対応が可能であったが、10往復に増便され、連絡船たちはきりきり舞いで働いた。

 しかし。増加し続ける貨物量に、増便だけで対応するには限界がある。そこで、鉄道省は十二年九月、浦賀船渠に車両渡船を発注。十四年十一月、三隻目の貨物船:第三青函丸が就航した。

 

「航海速力15.5ノット?随分と速いねえ。翔鳳丸型並みで走れるじゃないか。」

と、第一青函丸が言った。

「一郎と私じゃ海峡を渡るのに6時間かかる。翔鳳たちは4時間半だろ。航行速度は揃えた方が、運航表の作成が面倒でないからな。」

第二青函丸が、新造船の性能表を読みながら呟いた。

「しかし、この貨物の増加具合じゃ七隻体制でもすぐ破綻するんでないか。」

「上は先月にはもう新しい貨物船を発注したと聞いたが。早けりゃ再来年の初めには新入りが来るだろう。石炭を運ぶ船は絶対に必要だしな。」

実際、昭和十五年の貨物輸送量は四年前の倍となり、青函両港に積みきれない物資が溜まるようになっていた。貨物船の増強が必要であることは、誰の目に見ても明らかであった。 

けれど。海軍艦艇の建造が優先されたために、新船の起工は遅れに遅れ、やっと着工がなされたのは昭和十六年の八月であった。

同年十二月八日。日本政府は米英に対して宣戦布告。大東亜戦争が開戦した。

 

「船体工事停止?この状況で?石炭輸送でさえ滞っているんだぞ、何考えているんだ!」

飛鸞丸が吠えた。目の下には薄くクマが浮いている。

「京浜工業地帯用のだってあるんだ、艦艇艦艇と言うが、こっちが動けなきゃ浦賀も横浜も火が止まるんだぞ!」

「飛鸞、落ち着け、」

こめかみに手をやった翔鳳丸が言った。とはいえ、こちらも苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「おまえが怒ったってなんにもならない。鉄道省は海軍の連中と交渉の真っ最中だ、建造中の船が無事就航できるかどうかも、このあとの新入り三隻が車両渡船になるのかどうかも、この交渉に全部掛かってる。」

 鉄道省の車両渡船建造の要請に対して、海軍は戦時標準船でなく、特定の航路にしか使えない上に大きさの割に積載能力が小さい車両渡船の建造など論外である、とこれを却下し続けていた。鉄道省側は、車両渡船の荷役時間の短さ、船と岸壁の稼働率の高さを戦時標準船と比較して貨車航送の優位性を訴えていたが、状況は芳しくなかった。

 風向きが変わったのは、昭和十七年の六月。ミッドウェイ海戦の大敗が契機であった。徴用船舶の戦損はこれまでにももちろんあったが、以降、激増。南洋の植民地から燃料を入手することが困難となり、北海道以北の産出する石炭への燃料転換が推し進められたのである。一方で、船舶の徴用によって内航船海運は大打撃を受け、海運に依存していた炭輸送は全く機能が落ちていた。ここにきてようやく、政府は物資の海上輸送から陸上輸送への転移を正式に決定し、北海道地区からの石炭輸送には青函間貨車航送を活用し、車両渡船の早急な建造が推し進められることとなった。

 ようやく第四青函丸が就航したのは昭和十八年の三月。この船は、第三青函丸以前の貨物船の欠点を改良し、青函航路に最大限適応した最新鋭の船舶、であった。

 …ただ。

「枕木がない…?」

船内軌道の下に敷く枕木に使用する堅材が入手できなくなったために、レールは車両甲板の上に溶接された鋼材にボルトで固定される方式となっていた。

このような一件だけでも分かるように、戦況には暗雲が漂っていた。どこか知れない重苦しい不安を抱えながらも。連絡船たちは貨客を運び続けるほかになかった。

 

 

第四章 戦時標準船

 

「第五青函丸です。なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。」

函館の連絡船控室には、松前丸しかいなかった。他の連絡船たちは、貨客船も貨物船も皆、運用中か青森側に停泊しているためであった。

「貨客船の松前丸だ。よろしく頼む。こんな年の始めからすまないが、青函の輸送事情は非常に逼迫している。滞貨がよろしくない状況なんだ。」

松前丸は暗澹たる心持ちで事情を述べると、立ち上がって第五青函丸を迎えた。

「……建造中何があった?四郎とだいぶ構造が違うようだが…。」

「確かに僕は四青函を元として建造されてはいますが、基準となる仕様は全く異なります。僕、いえ…僕らは『戦時標準船』ですから。」

第五青函丸は苦笑した。

「浦賀もね。きりきり舞いなんですよ。どこも早く、早くってせっついてくるからね。資材は足りない、燃料も足りない、人手だって足りない。造っても造ってもそれより速く沈められちまいますから。僕らがこうなるのも当然だっておはなしで」

「丁寧に作る時間なんぞないものだから、身の回りに気を配る余裕もないもんで。兵隊に採られるのだって惨いとは思いますが、こっちの事故も多いですね。」

鋼板の厚さの減少、船体の直線化、二重底廃止、第二甲板の一部省略、船員居住区の大部屋化、と第五青函丸は指を折った。

「僕なんかは浦賀が海軍の要求に合わせようとしたあまり、軽くなり過ぎちまいまして。船底に砂利を詰め込んでなんとか間に合わせていますが。さすがに、懲りたのかW2(※W型戦時標準船の第二船)以降、僕ほど軽量化はしなくなったようですが…。」

聞けば聞くほど、気持ちが暗くなる。脳裏を「お先真っ暗」という言葉がよぎった。

「僕はこのまま、運用に入りますので、失礼します。」

蒼髪の戦時標準船は、一礼すると、部屋を出て行った。

がらんとした部屋に、沈黙が満ちた。裸電球が松前丸の影を壁際に濃く照らし出した。

(この先、俺たちはどうなるんだ)

(この戦争はすぐに終わるはずだった、そうでなきゃこんなになにもかも追いつめられるところまで来ているはずがない)

(津輕たちに連れまわされて百貨店でへばったのがもう…何年前だ、あの後津輕は「世間が嫌な方向に向かっている」と言っていたが、こうなろうとは思っていなかったんじゃないか)

(こんなことなら、何回だって連れまわされる方がよかった…)

思いは頭の中を渦巻いて、ぐるぐると結末を見付けることなく回るばかり。そういえば、最近津軽丸に会っていない。

(ごちゃごちゃ考えていないで眠れ。いま、寝ておかないと後がきついぞ。)

自分に、暗示をかけるように呟いて。松前丸は目を閉じた。

 

北国の厳しい冬が少し緩むころ、二隻目の戦時標準船が函館にやって来た。他の青函丸たちと全く同じ蒼髪の青年は、就航後しばらく松前丸と遭遇することがなかったが、ある日の青森で、ついに顔を合わせることとなった。

第五青函丸よりも状況が悪くなっていることは、一目で見て取れた。

「…どうして、とでも言いたげな顔だな」

第六青函丸は、松前丸の言葉を途中で遮って言った。

「あんたが思っている通りだよ」

蒼い束髪が、左右に小さく揺れた。

「石油も鉄鉱石も、敵さんの方がずっと所持している。戦闘機だって、艦船だってな。言葉だけ勇ましい文句を並べたって、実際はそんなところだ。なるようにしかならん。」

それは、達観しているようでもあり、自棄になっているようでもあった。

「今頃浦賀ではW3が起工しているだろうが、果たしてこの後の船はここまで辿り着けるかね、俺は甚だしく疑問だよ」

「…おまえは随分と不穏なことばかり言うな、第六青函丸」

松前丸は彼を眺めると、こうこぼした。

「どうにかして状況がよくなるなんてことがあるかもしれないだろう。」

「思ってもないことを言うんじゃないよ、松前丸。」

戦時標準船は、口角をちょっとだけ上げた。

「俺はうそつきが嫌いだ。」

そう言い放って。第六青函丸はするりと消えた。

「………うそつき、か」

残された松前丸は自嘲するように呟くと、固く手を握りしめた。

 

 

第五章 銃を握りて

 

六月。B-29による爆撃が日本本土に開始された。当初は成都の基地から発着していたために、攻撃は北九州地域に限定されていたが、七月、サイパン島の日本守備隊が全滅し、大規模な航空基地を建造することが可能となると、日本本土の大半を攻撃目標とすることが可能となった。

開戦とともに、青函連絡船たちは重い灰色一色の戦時警戒色に塗りつぶされていたが。この頃、機銃…13ミリ機関銃と25ミリ機関銃を、全連絡船に装備することが定められた。

 

「…ついにきたか」

津軽丸が二段寝台の下で、呟くのが聞こえた。

「おまえはこれを予想していたのか?」

「…逆に訊くが、おまえは戦況が悪化しないとでも思っていたのか?」

覗き込むと、姉は呆れ顔でこちらを見上げていた。

「戦時標準船の話、聞いただろう。船体3年、機関1年。浮かべばいい、この戦争が終わるまで保てばいい、そんな考えでいいはずがあるか。根性で戦争に勝てるわけがない。」

声を立てて笑うと、津軽丸は布団に倒れ込んだ。

「もうこれは、どう終われば一番マシか、という段階の話だよ。戦争は終わらすのが一番むつかしい、うまく折り合いが着くまでに、何か月かかるだろう」

「…津輕…、」

「私は少し寝る。松前、悪いが1時間したら起こしてくれ。」

すぐに寝息が聞こえてきた。

(おまえは銃を持つことについてどう思うんだ)

松前丸は、口先まで出しかけた言葉を飲み込んだ。

(俺はこんなもの、身に着けたくないよ)

 

 その日。函館の集会室には、津軽海峡に就航している連絡船たちが勢揃いしていた。四隻の貨客船。六隻の貨物船。皆、船本体の動向に意識を残しながらも、目の前の机を注視している。卓上には、十丁の拳銃が、並べられていた。

 誰も何も言わなかった。重苦しい空気が、部屋を包み込んでいた。

 津軽丸が、小さくため息を吐くと、進み出て、銃を手に取った。彼女はそれをくるりと回してしまいこむと、誰とも目を合わさずに部屋を出て行った。三々五々と、他の連絡船たちも続いた。一人、また一人と人影が減るにつれて、部屋の暗さは増していくばかりだった。

 

気が付くと、集会室には、松前丸と第六青函丸だけが残っているのだった。

…決して広くはないはずの部屋が、急に大きくなったように思えた。

卓上には拳銃が1つだけ、残っている。手を伸ばして、ためらって、結局皆が出ていくまで何もできなかった、自分の拳銃が。

(なぜだ。なぜ、俺たちはこんなものを身に着けなければいけないのか。)

黒光りする銃身を見つめる。

時局を鑑みると、武装しなければいけないのは明白だ。頭はそれを知っている。…分かっている。ただ、すさまじい違和感と、足元からじわじわ立ち昇るような恐怖心が、それを持つことを躊躇させているのだ。

「怖いのか」

ふいに、壁に腕組みをして、もたれかかっていた第六青函丸が、口火を切った。

「……」

「おまえが迷えば迷うほど、人が死ぬ。」

蒼髪の戦時標準船は表情を消したまま、言葉を重ねた。

「これは自分の仕事じゃない?…俺たちの使命は、燃料や人を運び続けることだろう。そのためにはなんだってするべきではないのか。」

「それは」

(痛いほどに、分かっているけれど)

「俺たち一隻一隻に価値なんてない。『青函連絡船』という装置を維持し続けるためには銃が必要なんだ、おまえが抱え込んでいるちっぽけな罪悪感なんて些末な問題だ」

矢のように。言葉が心を抉り取っていく。

「甘さは捨てろ。これまで大事にしていた価値観は諦めろ。それは、今となってはどうでもいいことだ。」

沈みこんでいた精神のどこかに、「どうでもいいことだ」という文句が引っ掛かった。一気に埋火が燃え上がる。

「『どうでもいい』?」

「なんで、なんだっておまえは、そんなことが言えるんだ。」

口から迸る言葉を止めることができない。冷静になれ、冷静になれ、と頭のどこかで囁く声が何も機能していない。きっと相手を傷付けてしまうだろう台詞が、矢継ぎ早に飛び出した。

知っていた。

これは、ただの八つ当たりだ。

彼は黙って全て聞いていたが、一通り雑言が終わると、体を起こした。

「おまえの言うことはちっとも分からないな、」

松前丸の横をするりと通り過ぎ、扉に手をかける。

「悪いね。俺はこの戦争が終わるまで保てばいいと造られた船だからな」

第六青函丸は入り口で立ち止まると、少しだけ振り返った。…彼の表情は、顔に落ちた影で隠れて、よく分からなかった。

「おまえたちとは違うんだ」

 

 

第六章 六郎という男

 

 七月二十日。第七青函丸が就航。十一月二十二日。第八青函丸が就航。一時期は船も岸壁も全速力で回転し、日二十一往復を記録したものの、戦時標準船の機関故障や施設の疲労が相次ぎ、輸送体制は徐々に破綻していった。

 昭和二十年二月二十七日。浦賀から函館に向け、回送中の第九青函丸が、勝浦沖で座礁し沈没。三月六日、第五青函丸が青森港北防波堤に衝突し、沈没。また、たびたび浮遊機雷が海峡に流入し、航行は困難を極めた。潜水艦攻撃を警戒して夜間は厳重な灯火管制が行われ、船員たちは解くことのできない緊張に包まれていた。

 同時期、各地で本格的な空襲が見られるようになった。三月十日の東京大空襲以降は焼夷弾を集中投下する無差別爆撃が本格的に開始された。耐火性の低い日本の家屋はこの爆弾に対し、為すすべもなかった。

 函館、青森とも人口は二十万人前後。空襲を受けていた各地方都市と、同じような規模である。両都市に空襲の手が伸びるのも、時間の問題であった。ただし、連合軍がより重要視し、狙いを付けていたのは、内地に燃料を輸送する大動脈である青函連絡船と、港の施設であった。

 

 七月十日。東京方面から、「十三、四日ごろにかけ、青函連絡船を対象とした大規模空襲が行われる」との情報が入った。六月末から七月初めにかけ、米軍機による偵察行動が活発に行われていたこともあり、薄々、この気配を感じていた連絡船たちは、ざわめきたった。

「国鉄側は連絡船を疎開させたがっているそうだが、却下されたようだな」

翔鳳丸は、暗い顔でその言葉を告げた。

「……事実上の死亡宣告じゃないか、攻撃されるのを分かっていて出港するなんて!」

第三青函丸が無線越しに嘆いた。

「あちらの規模がどれだけのものかは分からないが、逃げ切れるものじゃないだろう!」

「だが、出ろという話だ、……どうしようもない話だな」

「全くだよ…」

連絡船たちの間で、活発に信号が飛び交った。松前丸は二言、三言話しては信号に耳を傾けていたが、ふと、先ほどから一言も発していない船がいることに、気が付いた。

(第六青函丸か。何か言いそうなものだが)

(まさか、聞こえていないのか?)

前年の機銃装備の一幕以降、松前丸と第六青函丸の関係は、決して良いものとは言えなかった。言葉は交わすものの、非常に事務的な会話に限られた。実際、こちらから話しかけるのは今でも大層気まずい。

しかし、事態は急を要する。たとえ太刀打ちできないにしても、警戒しているのとしていないのとでは、大違いに決まっている。松前丸は意を決すると、第六青函丸に信号を打った。

「空襲の話 聞こえているか?」

数秒ほど経って、相手から、

『聞いた』

という返事が戻ってきた。

(なんだ。聞こえていたのか。よ…くはないが、最悪じゃない)

松前丸は少しだけ緊張を緩めたが、次の瞬間、入ってきた信号にビクリと震えた。

『おまえは どうするんだ』

(どうするんだ…?どういう意味だ)

(そんなことより、第六青函丸がこんな抽象的な質問をするなんて、「らしくない」)

信号はなおも続いた。

『俺たちは 人が定めなければ 逃げることすらできない』

『ほとんどの船が 運用に入っている 工事中の船は 動けない』

『選択肢が 何もない』

なんとなく、これまで何を考えているのか分からなかった彼の思考が読めてきた。この船はこの船なりに、最善と思われる方法を選んで行動しているらしい。

 ところが、今回は袋小路だ。備えようがない。そのため、どうやら思考が混乱しているように見てとれた。

「運用に入るしかないから入る 来たらできるかぎり逃げる」

わずかばかり逡巡したあと、回答を打った。

「それしかないだろう」

『それでいいのか おまえは』

次の信号は、少しだけ語尾が震えているように思えた。

『俺は 死なせたくないし 死にたくない』

(ああ)

(こいつもふねだ)

「俺だって 可能性がある限りは 死なせたくないし 死にたくないよ」

『可能性』

「だからまあ 逃げる 俺はそれなりに速いしな」

『俺は おまえほど 速くない』

「それでも 逃げるしか ないだろ」

信号を打っているうちに妙に落ち着いてきて、松前丸は息を吐いた。

そう。それしかないなら、それをするしかない。

「そうしろ 六郎」

一瞬沈黙が流れた。

『わかった』

短い返事が届いた。

松前丸は帽子をかぶり直すと、船橋の窓から警戒を続けることにした。

来るかもしれない時間のために。

 

 

第七章 七月十四日

 

「…だからごめんて。でも、青森に定時で着くのは無理だ。松前、おまえも知ってるだろ?函館桟橋で停電が起きたんだよ。三時間半何もできなかったんだ。」

「だから、俺に一番客の多い便を任せると?」

「おまえが乗せきれなかった客は私が引き受けるからさ。じゃあ、そういうことで。」

津軽丸からの信号は、途端に切れた。松前丸は、ため息をついた。

七月十三日夜。警戒されていた襲撃は、少なくとも本日中は可能性が低いと判断できる時間となって、緊張が少しだけ緩んだ青森港である。連絡船たちは続々と港に入り、夜間の航行の支度をしていた。この日の未明、函館桟橋で停電が発生したことによって、ダイヤは大幅に乱れていた。

「この分だと…俺が出発できるのが二十三時半頃、津輕がその後だとすると、二時から三時?函館に到着する頃には夜が明けるぞ…」

駅を見やる。遅延も手伝って、どこもかしこも大勢の客でごった返していた。

「これは…乗せきれないな…津輕に託すか」

松前丸は外套の襟元を締め直すと、足早に桟橋に向けて歩いて行った。

 

午前三時半。尻屋崎の南東に浮かぶ空母エセックス、ランドルフ、及びバターンから、総数約百機の戦闘機が飛び立った。各機は松島~函館の間に散らばる飛行場を目指し、迎撃してくる相手戦闘機を殲滅することを任務としていた。十五分後。今回の攻撃の主力部隊同じく約百機が発進。彼らの第一目標は青函連絡船。第二目標は桟橋、野分石油貯蔵所、大湊港と定められ、徹底的に青函航路を破壊することが目的であった。

 

 最初に攻撃を受けたのは第二青函丸だった。第二青函丸はあと一時間で青森に入港できるという位置で、空襲警報を受信した。船橋に機銃掃射を受けるも、海軍警戒隊の応戦によって、この時は編隊を退けることができた。しかし、船長以下、十数名が死亡・負傷し、航行がやっとの状態であった。

 直後、翔鳳丸が攻撃を受け、続いて第六青函丸が、津軽丸が、第四青函丸が、第十青函丸が、松前丸が、第三青函丸が、第七青函丸が、次々と攻撃を受けた。

 

 松前丸は夜間航行を無事乗り切り、折り返し五時発の第十四便として、旅客を乗せ、貨車を積み終えたばかりであった。

けたたましい音の空襲警報が鳴り響き、船員たちが慌ただしく客を下ろすのが見えた。

(来たか。…来てしまったのか。)

函館桟橋から、沖に船を出すよう指示が飛んだ。すぐに岸壁を離れ、防波堤を過ぎたころにはもう、グラマンが来ているのが見えた。

直後、すさまじい衝撃が全身を襲った。

(機銃掃射…)

立っていられない。飛びそうになる意識をなんとか捕まえて、目を凝らす。船橋は幸い無事で、旋回行動を始めたようだった。上空を見ると、グラマンが何機も飛んでいるのが分かった。

「…俺、もうだめだ。沈む」

突如、第四青函丸から信号が入った。

「四郎!」

頭が回らない。何もできずに左舷に目をやると、第十青函丸が沈みかけているのが目に入った。閃光と轟音が聞こえて右舷後方に頭を回せば、駆逐艦橘が沈没するところ。

(どうすればいい、そのうち、両方を攻撃していたやつがこっちに合流するぞ…!)

船員たちの叫び声に耳を傾ける。

「…七重浜に…」「…のし揚…機械回せ…」

(七重浜に座礁する気か、どうか、なんとかもってくれ…!)

機関が全力で回り始めた瞬間、船橋と煙突の間に閃光が走った。

目の前が真っ白になって、それで、………

 

午前中の攻撃は、天候の悪化によって中断された。この間に、第四青函丸・第十青函丸・第三青函丸が沈没。松前丸は七重浜で擱座炎上。第二青函丸も死傷者多数。

 

しかし、惨劇は午後からが本番であった。曇っていた空が晴れ上がり、視界が良好となったためである。午前中辛くも逃げ切った船たちも、ことごとく沈没。第六青函丸は擱座炎上。第七青函丸、第八青函丸は航行不能。この日をなんとかやり過ごした第一青函丸も、翌十五日の午後に攻撃を受け、沈没した。

 

両日で、実に三百名以上の船員・旅客が亡くなっている。負傷者はおびただしい数であった。

 

 

終章

 

「おまえから見て俺の状態はどうだ?修復に耐えるような損傷か」

口の端に微かな笑みを浮かべて、松前丸は問うた。

「無理だな」

第六青函丸はきっぱりと言い切って、顔を振った。束ねた髪の端が、左右に揺れた。

「煙突の後左舷から完全に船体が折れている。船首にも亀裂が入っている。機関室を中心に、火災による破損が激しい」

「俺も煙突が折れているし、ブリッジは滅茶苦茶だし、修復されるかは全く分からん。だが、おまえを直すのは厳しいと思う。」

「…そうか」

黒髪の貨客船は顔を上げて、しばらく虚空を見つめていたが、息を吐くと、

「撃ってくれ」

と言った。

「おまえがここに来たのだって半分はそのためだろう。」

第六青函丸は無言で松前丸の顔を見た。

「おまえの腕は信頼しているよ。」

「…本心は?」

腰に手を伸ばしながら、蒼髪の青年は冷徹に言った。

「…そうだな、」

松前丸は目をつむると、にっこりと笑った。

「…津輕のいない世界にもういたくない。」

「…そうか」

撃鉄の上がる音がした。胸に銃口が当たる感触がした。

…たぶん、銃を持つ手は震えていた。

目を薄く開けると、彼の顔が見えた。

(ああ、困ったな)

(おまえをそんな顔にするつもりじゃなかったんだ)

ぽたぽた、と熱いしずくが落ちてきて、頬が濡れるのが分かった。

次の瞬間、胸を衝撃が貫いて、後は何も覚えていない。

 

 

2015年7月14日午前3時30分、函館

 

「本当に、六郎には悪いことをさせたと思ってるよ。」

海峡の声には、苦渋の心情が滲んでいた。

「どうかしてた。」

「全く、因果なものだな、松前丸。何故俺たちはこの海へ戻ってきてしまうのだろう。」

摩周丸は言う。第四青函丸だった彼は比較的転生が早く、初代、二代目の摩周丸としてほぼ絶え間なく津軽海峡の交通に関わっていた。

「…知らない。ここまでくると思い入れが無いわけでもないけどね。」

 なぜ青函の交通手段として転生し続けるのか、理由は全く分からない。船舶でなく、鉄道車両となった今世の次は一体どうなるのか、見当もつかない。

「松前、四郎。」

津軽丸の声がして、二人は振り返った。札幌発のはまなすが、ようやく到着したのである。

「待たせたな。」

はまなすはゆっくりと堤防の先へ進み、持っていたハマナスの花束を湾内へ投げた。桃色と白色の花弁がしばらく波間に見え隠れしたが、やがて湾外へ出る流路に乗ったのか、姿を消した。三人は灯篭流しのように、それをずっと見送った。

季節は巡る。記憶を層のように積み重ねて、同じことを幾度繰り返してきたことだろう。

あの夏の日を濃紺の奥底に隠したまま、津軽の海を静かな風が渡っていく。

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