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​◎海峡を越えて(小説版)
​第1部 最長の海底トンネル
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第1章 最長の海峡トンネル(上)

 1985年3月10日。津軽海峡の海底を経由する青函隧道の本坑が開通。北海道と本州が

陸路で結ばれた。阿部覺治が青函トンネル構想を記してから62年。米軍による空襲で

青函連絡船が壊滅してから40年。洞爺丸事故で1000名以上の犠牲者を出してから31年。

異常出水を乗り越え、34名の職員を亡くしてまでの執念が実を結んだ瞬間であった。

 全長は53.85 km。開通当時、交通機関用としては世界最長のトンネルであり、国内では

2017年現在に至るまで、他の鉄道トンネルや道路トンネル、水路を含めてもぶっちぎりの

1位である。この特性から、走行車両には特に火災事故防止の対策が必要とされており、

一般の営業用車両は電車か、電気機関車のみに制限された。他にも年間を通して100 %を

保つ高い湿度や海岸沿いの潮風、降雪、亜寒帯の気候への耐性が求められ、もろもろ検討が

行われた挙句に貨物・客車牽引用の機関車として、奥羽・羽越本線を運行していたED75形

電気機関車700番台に白羽の矢が立った。当人たちにとっては正に青天の霹靂であった。

 当時、ED75形の700番台には、製造年の早い「兄」と遅い「弟」が存在していたが、

「弟」の方を改造し、青函専用機のED79形として独立させることが決まった。「弟」は

さすがにこれを告げられたときは仰天したものの、その後は嘆くでもなく、抵抗するでもなく

ただただ淡々と指示に従って改造を受けた。騒いだのはむしろ「兄」のほうであった。

 1987年の10月21日、ED79は青函隧道に足を踏み入れた。

横目で津軽浜名の駅を通過したことを確認し、手前の短いトンネルを一瞬で抜けて、みるみる

近づいてくる海峡トンネルの口を、彼は身を強張らせて見つめていた。息を止めたそのとき、

機関車は長い暗闇へ飛び込んだ。

最初に感じたのは息苦しさだった。濃霧をくぐるような重苦しい空気が延々と続く。

次に静けさが浸み込んできた。交換のメンテナンスコストを減少させるため、

青函トンネル内のレールに継ぎ目はない。車輪と接触している以上、摩擦音は必ず発生するのであるが、

単調で静かなうなりが鳴り響く。

 入口を過ぎてかれこれ15分ほどが経過したところで、ふとトンネルの最深地点である、

という事実が頭をよぎった。

 背筋が凍りついた。

 裏日本の豪雪地帯の海岸線を走行してきた自分は、海風や雪などには慣れている。

しかし、これほどの長時間、周りに空も海も見えない状況で、走り続けるなど初めてだった。

 しかも、これでやっと半分だ。営業時は倍の時間をこの暗闇の中で、1日に何回も過ごさねばならない。

もちろん、周りには平気な顔をして。

 いや、海はあるのだ。自分の真上に。それは、絶え間なくぽたぽたと垂れる水音をもって、

圧倒的な存在感を示していた。

海が堕ちてくるかもしれない という恐怖と共に。

 

***

 

「…D…9、ED79…、おい…、」

誰かが自分を呼ぶ声がする。揺さぶられている。誰かが自分の傍にいる。

その認識が輪郭を顕わにした途端、ED79は机に伏せていた上体を勢いよく起こした。

「…なんだ海峡か。」

(見られた。)という恐怖は、青髪を見た瞬間に緩んだ。青髪の持ち主は、自分の発言に対し

大層不満げに眉を持ち上げている。

「なんだとは酷い言い草だな、ED79。居眠りとはいいご身分じゃないか。」

「コンテナ積み下ろしの試験をやっていたら寝る暇が無かった。眠いのも当然だ。」

「…体には気を付けろよ。お前、クマが酷い。」

「顔色と目つきが悪いのは元々だ。」

快速列車の海峡は、全然信じていない、という表情で見ている。

「本当か?まあいい。それより起こして悪かったな。」

 海峡はいいやつだ。

 妙に達観している部分は謎だが、気さくでよく話し掛けてくれる。

 北海道勢と新参者のED79が馴染めるように、何かと配慮してくれる。

 本当に、できたひとだ。

 だから言えない。たかがトンネルに身が竦んでいるなどと言えるわけがない。

「いや。それで、何の用?」

 恐怖を、苦痛を、表面に出してはいけない。周りに迷惑をかけるから。

「…うん。お前、海峡線を走る在来車両には大体紹介したと思ってたんだけど、肝心の相手を

 忘れてて。さっき起こして連れてきたんだ。」

「…青函を走る車両って、まずお前(海峡)だろ、盛岡から来るはつかりに、JR東のお嬢

 (北斗星)、転属前から顔見知りの日本海、あと…?」

「ウチ(JR北海道)のはまなすだよ。はまなす!」

 海峡は、満面の笑みでその人影を呼んだ。

 

***

 

 それが、どうしてこうなった。

 はまなすに顎を掴まれたまま、真っ白に塗りつぶされた頭の中で、ED79は何とか考えを

まとめようとした。はまなすは彼を放置したまま、海峡と何やら話し込んでいる。

 海峡に呼ばれてふらふら近寄ってきたので、誰がはまなすかはすぐに分かった。片手に

白い犬のぬいぐるみを持ち、頭にハマナスの花を負った、有体に言えばとんでもない美少女

だった。どう見ても不機嫌そうなのが気にはなったが。

「めちゃくちゃ機嫌悪そうだけど?」

と、海峡に訊いたはずだ。それに対し海峡は

「あー…無理やり起こしちゃったから…あいつ夜行だし…。」

と無責任極まりない発言をし、真の悪さに頭を抱えたりした、はずだ。

「こんな昼間っから一体何の用だ海峡、私は夜行だぞ。」

第一声はそれで、海峡が自分を紹介するなりつかつかと歩いてきて、

いきなり顎を掴まれて、強制的に顔を上げさせられて、

じっと間近で表情を読み取られた。

そう。彼女は確かに、こう言ったのだ。

「そうかお前、トンネルが怖いのか。」

第2章 最長の海峡トンネル(中)

 夢を見た。暗闇をただひたすらに走っている夢だ。どこまで行っても終わりは見えず、
押しつぶされるような息苦しさと焦燥感が続く。青函隧道の試験走行以来、ED79は連日
この夢の中に閉じ込められていた。時間が来ると目覚ましが鳴って、強制的に現実へ引き
戻してくれる。正直なところ寝ても全く疲れが取れないのだが、眠らないわけにはいかない
ので、目覚ましを入念にセットすることにしている。起床に対し神経質になることは、鉄道
員では特に珍しくはないので、不審に思われる心配はなかった。


 夢のトンネルを走り続けながら、ED79は考える。
目覚ましにたたき起こされ、実際のトンネルと向き合うことと、いつまでも夢の中に居ることの
果たしてどちらがマシなのだろうかと。
突如、目の前に海峡が現れて、道床のなんだかよく分からないものに足を取られて転んだ。
複線の間に膝を付いた海峡は、どういうわけか目の前でズブズブと沈んでいってしまう。必死に
伸ばした手には、当然届かない。横を見ると、はまなすが半目を開いたまま、仰向けで同じ
ように沈み込んでいる。線路のすぐ脇にいるのだから、引き上げられそうなものだが、なぜか
体が動かない。助けを求めて周りを見ると、北斗星や日本海らが横たわっている姿を目にする。
そうこうしているうちに同僚たちは闇の中へ消えていき、一人だけ残される、というのが
一連の流れであった。しばらくその場でじっとしていると、目覚ましが鳴る。

 

今日の夢は、まだ続くらしい。
線路上でうずくまっていたED79は、何かに頬を触れられて、顔を上げた。
「…君、こんなところで何をやってるの?」
「…ッ…なんで…?」
 兄のED75がそこにいた。完全に時空間が狂っている。秋田に残った兄が、青函トンネルまで
入ってくることは絶対に無いからだ。これだけはトンネルのありがたいところだった。
「なんでってそりゃ、君が僕を呼んだからだろ?」
兄の顔で兄の口調で、それは全く兄そのもののように振舞った。
「なんて酷い有様だよ。」
「…そうだね。」
「君は昔から優し過ぎるから」
ED75は線路脇に広がる黒々とした水溜りに腕を伸ばして、何かを拾い上げた。
「こんなことになるんじゃないかと心配していたよ。」
ハマナスの赤が目に突き刺さる。
「結局君を救ってやれるのは僕だけだろ?」
違うと叫びたかった。自分は、「僕は」一人で走って行けるのだと。故郷を離れ、兄と離れ、
海底に潜ることを選んだのは、それを証明したいと願ったからだ。
「85番は出来が悪い。」
兄は笑う。
「君は僕の下にいるのが一番幸せなんだよ。」

 ED79は無言で目覚ましに左手を伸ばした。次々に鳴り始めるアラームを止めた後、
彼はしばらく顔を手で覆ったまま動かなかった。

 

***

 

ここしばらくのところ、青森駅のバックヤードでは、大量のバインダーや製本された学会誌類、
束になった書類を空き部屋へ運び込んでいるはまなすと海峡の姿が目撃されていた。

紙がうず高く積まれた台車を押しながら、海峡は横目ではまなすの様子を伺った。日の高い
うちに叩き起こしたため、眠そうな顔をしているが、手はしっかりと地層図の束を抱えている。
不機嫌な気配は感じなかった。そもそも、昼間から起こせと頼んできたのは彼女の方なのである。
「言いたいことがあるならさっさと言ったらどうだ。時間の無駄だ。」
はまなすが睨んできたので、海峡は間を測るのをやめて、単刀直入に話題を切り出した。
「あいつ、どこまで保ちそう?」
「だいぶ無理をしているようだから、まあ数日中に動けなくなるだろうな。」
足音と台車の音だけが廊下に響き渡った。
言うまでもなく話題の中心は、先日五稜郭へ移籍してきた赤髪の機関車のことであった。
「バカだねぇ、ホント。」
「バレバレなのにな。知らぬふり、忘れたふりをするのも一苦労というところだぞ。」
青函トンネルをED79と走る2人は、とっくの昔に彼の不調に気が付いていた。

なにせ、かつてない長さの海底トンネルである。恐怖心を持たない方が、安全上危なっかしい。
もっとも、どうやら原因の根はかなり深いところにあるようだが。
「…DE10には話を回してある。」
急に立ち止まったはまなすに合わせて台車を急制動したため、書類の何枚かが床へ落ちた。
「はまなすのそういうところ、僕は好きだぜ。」
「当たり前のことだ。トンネル内で固まるなんて言語道断だ。娯楽小説じゃ自分が説得するから
 バックアップなぞ要らんと言うところだろうが、リスク管理がなっていない。」
津軽海峡の旅客移動、物流を止めてはならない。
それは青函両岸をつなぐ者たちの共通命題であり、厳守しなくてはならぬ定理である。
「そもそも、DE10すら救援用、本当の最終手段だしな。連絡船と入れ替わりだから、津軽海峡 

 の流通は、完全にED79依存にシフトする。」

「後のことを考えても、この数日が正念場ってやつだな。」
海峡は書類を拾い上げた。
「まあ、外野はせいぜい油断せず見守るとしましょうか。」

 

***

 

また、いつもの夢を見た。
同僚が沈んで兄が現れ、目覚ましが鳴り、すがるような気持ちで目覚ましに手を伸ばそうとしたら、
体が動かなかった。
 目覚ましは鳴り続けている。

 青森駅の駐在車両たちは死にそうな顔をして話し込んでいた。ED79は几帳面な性格で、通常、

試験走行の30分前には車庫か引き込み線か事務所で待機している。そうでなくとも、大抵、直ぐ

呼び出せるところにいて、移動するときは入るスジまできちんと黒板に書いてから出ていく

ところが、今日に限っては5分前になってもどこにも姿が見えないうえ、部屋に電話を掛けても返事が無い。

青函の移動がいかに重要なものか、長年青森駅を拠点としてきたものたちは痛いほど理解しており、

ED79に大いに期待を寄せていた。

何が起きたのかは分からないが、北海道所属の誰かに頼み込んで部屋を開けてもらい、

無理矢理引っ張り出すか、と論じているところであった。

「目覚ましのアラーム音が鳴ってるのは聞こえるんですけど…ドアを叩いても返事が無いんです!

 貨物は 取り扱い荷物に関する書類を持ち帰ることがあるので、部屋に鍵をかけるひとは珍しく

 ありませんし…。」
DE10は部屋の前まで様子を伺いに行ったのである。
「何があったかは分からないが、我々にトラブルがあると駅側にも伝搬する。」
EF81は大層困った顔をした。
「つまりとてもマズい状況ってことだよ。あちらさんから事故(ケガ)やら整備不良(病気)やら

過密ダイヤ (過労)なんかを貰ってくるのはともかく、逆はヤバい。」
「ですよねぇ…。」
北海道勢に頼もうにも、肝心の海峡とはまなすの姿が見えないのである。
「おい、あの2人は一体どこにいるんだ!」
特急はつかりが頭を抱えたところで、先程から隅で傍観していたED75が手を挙げた。
「僕さっき会った。15分遅れでこちらによこすから、すまないけどよろしくってさ。」
「お前はなぜそれを先に言わない!」
EF81が呆れ顔で言うと、ED75は目を逸らした。すぐ横にいた特急つがるにだけは、

押し殺したような彼の呟きが聞こえた。
「だって僕、あの娘嫌いなんだもの。」

 

***

 

「おい、ED79。大丈夫か。」
はまなすがドアを叩いている音が聞こえる。
「ED79。ごめんな、開けるぞ?」
小さくカチャカチャと音がして、廊下の光が差し込んできた。足音と共に、海峡が寝台を覗き込んで
いるのが見えた。すぐに、はまなすの顔が横に並んだ。
「「こんなこったろうと思ってた。」」
 口を揃えて言うのである。
「お前、不調を出すまい、見せるまいとしてるからこんなことになるんだぞ。野生動物か。」
手を握られた。表情は逆光で見えなかった。
急に体の緊張が解けたので、ずっと起き上がろうと頑張っていたED79は勢いよく上体を起き上がらせ、

はずみで前につんのめった。
「ちょ…お前今、頭ぶつけたけど大丈夫か?」
海峡が心配して手を伸ばしてくるのを、腕を出して遮った。
「…頭は固いんだ。」
「…頭が固かろうが、ダメージは蓄積してると思うんですケド。」
呆れられた。
はまなすはその様子を見て、なるほど、と一人納得したように頷いた。
「あのな、お前、触られたくないならそう言わないと。」
「え?」
予想すらしなかった言葉が降ってきたので、思わず相手の方を振り向く。
「…やっと目が合ったな。まあ、何があったかは私からは訊かないよ。無駄に経験値は積んでるから

 な、なんとなく分かるっちゃ分かるんだ。」
「何の因果か津軽海峡3周目だからな。先の戦争の後じゃ、似た感じの人間を何人も見た。」
はまなすはため息を吐く。潮騒の音が急に密度を増した。
「傷をえぐる権利はお前だけにあるから、まあ勝手にしろと言えばその通りなんだが。私たちは

 お前の 嘆きを取り上げたりしないよ。言いたくなったらいつでも来い。聞いてやる。」
「つっても、隧道に関しては何とかしなくちゃな。それについては、対策を色々考えてるんだが、

受ける気あるか?」
「…何でもやるよ。この状況をなんとかできるなら。」
「そうか。」
彼女の厳しい表情が緩んだ。
「動けるか?試験走行は15分遅れで出発予定だ。6番乗り場まで走れば間に合う」
「青森に戻ってきたら、始めようか。」

​第3章 最長の海峡トンネル(下)

「…先ほども思ったんですが、僕の様子ってバレバレだったんですね…。」

 青森に戻ってきた途端、ED79は宿舎隅の倉庫のような場所に連れて行かれた。

彼の認識するところでは、少し前まで、階段横の掃除用具だの不要だが捨てるには忍びない

ものだのが置かれていた物置だったはずだ。

 今や、所狭しと古びた書類や書籍、製本された雑誌類、丸めた地図、模型などが並べられ、

積み上げられていた。僅かに残った空間に会議室から引っ張り出したとみられる机とパイプ椅子、

移動式の黒板が置かれていた。机の上にもファイルが山積みされている。

「いいから座れ。はまなすが待ってる。」

「そうだ。これから私達は、お前に津軽海峡の交通の歴史に青函隧道の構造、他地域の海底トン

 ネル、トンネル内での安全管理諸々を叩き込む。」

篠竹で黒板を軽く叩きながら、はまなすは言った。

「移籍直後には講習を受けただろうが、今回はそんな生半可なものではないぞ。」

手元のファイルの題目をざっと目で追うと、「肥薩線第二山神隧道列車退行事故」「奈良線生駒

隧道落盤事故」「営団地下鉄千代田線工事中土砂流入」「西日本水害に依る関門隧道水没事故経緯」

「国鉄青函連絡船洞爺丸事故記録」といった文字が並んでいる。

「コネを駆使して集めさせてもらった。大いに学べ。ただし、資料は部屋の外に持ち出すな。

 私と海峡のクビが飛ぶ。」

「おお怖い。津軽丸様は言うことが違う。」

「茶々を入れるな、松前丸。」

はまなすは海峡を睨んだ。

「そんな暇があるんだったら九州の8620形に電話の一本でも入れてこい。もっとも、あいつは蒸気

 だから隧道内は走行していないがな。」

「ハイハイ。いや、冗談ぽく言ってるけど、関門トンネルの先例はガッツリ訊いといた方がいいよ?

 なんせ、本邦最初の海底トンネルで水没までしてるからね?」

海峡はニッコリ笑って該当ファイルをいくつか差し出した。前の会話で2人の経歴が俄然気になってきたが、

取り合えずそれは放置して、ファイルを受け取った。

「…何でここまでしてくれるんです?」

訊いてみる。秋田にいたときは、優秀な兄と比べられてばかり、当の兄からは構われているのか、

束縛されているのか、依存されているのか、大変居心地の悪い思いをしたものだが。

「そうだね。一番の理由は、君に潰れて欲しくないから、かな?」

彼ははまなすを横目で見た。はまなすはため息を吐くと、一気に言い切った。

「先の戦争では、16隻の連絡船が全滅した。洞爺丸台風では4隻沈んで、1155人が死んだ。

 やっとだぞ?やっと青函が陸路で繋がった。もう沈まない、誰も死なない。

 私たちが、いや、お前が走らないでどうするんだ。」

 

***

 

「…おめがなんぼか元気さなったんは良かったけど、そっちゃある本読む必要あるのか?」

 弘前から到着した到着したキハ40が、コートの裾に付いた雪を払った。弘前は奥羽本線上の

主要駅であり、ED79が奥羽本線で貨物輸送を行っていたときからの知り合いであった。

「逆に疲れたりしない?」

ED79は分厚い本の細かい図を睨みながら答えた。

「疲れるけど、楽しいから。僕には必要なことだし。」

「ふうん。はまなすサンは厳しいと聞くが?」

「そうだね、昔秋田で学んだ時もあれほどじゃあなかったな。言うだけあって、毎日すごい量の

 情報が入ってくるから、自習しないと。」

「へえ。」

キハ40はストーブのやかんに水を継ぎ足して、余ったスペースで餅を焼き始めた。

「頑張るおめーは割と好きだが、無理はするなよ。餅食うか?」

「…きなこある?」

「おめーが食いたいならな。」

 

 じわじわと開業日が近づく中、はまなすと海峡はひたすら危険回避と緊急対応の想定をさせるようになった。

特にトンネル内での火災に関しては、車両の配線から先行事例に至るまで徹底的に研究した。

ED79は暇さえあれば本に埋もれ、部屋で寝落ちしていることもしばしばであった。

客車2人も眠い目をこすっては彼に毛布を掛けてやったり、夜食を作ってやったりした。

「しかしまあ、予想はしていたが根を詰めるな、こいつは。」

はまなすは差し入れた夜食のおにぎりを1つ拝借しながら、ED79の寝顔を覗き込んだ。

「ED75がED75だからね、相当追い詰められてたんじゃない?」

海峡も手を伸ばして、包装紙を剥がし、一口かじると嬉しそうな声を上げた。

「鮭入りのやつだ。」

はまなすは海峡の肩をぴしゃりと叩いた。

「1つまでだぞ。無くなる。」

「分かってるよ。…ED75は東青森や青森に出入りしているし、俺もよく見るけど、普通に優秀で

 人付き合いの良い奴なんだよな。話も面白いし頭がよく回る。」

「…たまにそんな奴がいる。非の打ち所がないように見えて、誰かに酷く依存するヤツが。」

冷めてしまった茶をすする。ED79が寝言で何かを言った。

「まあ、こいつ以外にいないだろ。」

「…いずれ、自分で解決しなければならないことだけど。今は少し、釘を刺しておいたほうが

 いいね。昨日から少し、また様子がおかしい。会って、何か言われたみたいだね。」

海峡は「察しがいいのもつらいね」と笑って、落ちかけていた毛布を掛けなおしてやった。

「釘を刺すのは私がやっておく。海峡、お前も少し寝ろ。」

はまなすは立ち上がって扉に手を掛けた。

「貨物が入ってきた。…お前、私が戻るまでここの鍵は開けるなよ。」

 

***

 

 青森港の外れでは、ちょうど連絡船が船着き場を離れたところだった。ED75は貨物車両の積み

込み作業を終え、桟橋からその様子を見送っていた。

 背後から軽い足音がこちらに近付いてきた。ED75は彼女をよく知ってはいたが、

向こうから声を掛けてくるまでは気が付いていないふりをしていた。

「…ED75(秋田の)。いい晩だな。」

「君がやって来るまではね、はまなす。」

ED75はくるりと振り返ってはまなすを見返した。

「この名前よりも “北見丸”や“津軽丸”の方がしっくりきますかね?」

「どちらも違うね。」

一蹴する。海峡はともかく、この相手にその名で呼ぶことを許すわけがない。

「それは今の私の名ではない。」

「へえ、そう。君って意外と薄情なんだね。」

「今の私には必要ないというだけだ。…ED79にも、ED75(お前)が構い続ける必要はない。」

空気が一変した。曲がりなりにも続いていた応酬は音もなく崩れ去った。

もうED75は、溢れ出る敵意を隠そうとはしなかった。

「僕ら兄弟の間のことに赤の他人のあなたが口を出さないでもらおうか。」

「同僚の業務に支障が出ているとすれば、口出ししないわけにはいかないだろう?」

はまなすは一歩進んで、ED75に迫った。

「しばらく距離を置くんだな。束縛を解いてやれ。」

「何を言う。ED79は弟だぞ。」

「あのな、」

更に進み出す。ED75は、ロープの係留杭を背にして追い詰められた形となった。

「本人が潰れたくない、ともがいているんだ。そしてお前はその原因だ」

「弟を救えるのは自分だけだ、などと自惚れてはいないか?え?」

指を突きつける。

そのままの姿勢で数分が過ぎた。とうとう、ED75は目線を外して嫌そうに頷いた。

「済まないな」

「…あんたのためじゃない、ED79のために呑んでやるんだ。」

 

去り際に、彼は暗い穴の底のような瞳をして、はまなすを仰ぎ見た。

「…あんたはいつか殺してやるよ。」

「やってみろ。いつだって、受けてやるさ。」

 

***

 

海峡線開業日早朝、青森駅6番線ホームにED79とはまなす、海峡の姿があった。

ED79の牽引する列車は、青森発の海峡が一番列車だった。

「本当に2人とも、ありがとうございます。」

緊張が解けぬ顔色で、ED79が言った。彼は先ほどから、数秒おきに時計を見ていた。

「落ち着きなさいって。つーか、まだ旅客の始発すら出てないのになんで緊張してるのさ。」

「実際お前頑張ったと思うぞ?まあこれからもっと頑張るんだけどな。」

海峡とはまなすが両サイドから指摘を入れた。

「仕方のない犬っころだな。しゃんとしろ、ヘッドマークが傾いてるぞ。」

手を伸ばしてピンを直してやる。

東の空が白みを帯び、朝日の一筋が駅舎に差し込んだ。

ED79の赤髪が、朝日を浴びて明るく輝いた。

はまなすはED79の耳元に囁き込んだ。

「大丈夫だED79、お前はちゃんとできるさ」

「だからしっかり、前を向いていろ」

 

***

 

1988年3月13日。津軽海峡を挟んで、函館駅と青森駅から、それぞれ車両が走り出した。

函館駅からは、盛岡行きの特急はつかり10号。

青森駅からは、函館行きの快速海峡1号。

青函は2時間の時を隔てて、ここに陸路で繋がった。

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