・橘の花咲く丘(二次創作)
※この小説は、千紗みかん(@chisamikan)さん宅の「橘しとら」さんをお借りした
二次創作小説です。
※『北極星と船霊達』合同カレンダー五月寄稿作品
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
――― 詠み人知らず(『古今和歌集』 夏)
「…だから!ちょっと横を向けば見えるだろ!」
5月13日、月曜日。時刻は日もとっくに落ちた20時過ぎ。街灯に照らされる古びた電話ボックス
から、年若い女性のまくし立てる声が聞こえている。
…いや、それはむしろ。”幼い”と言ってもいいような、声で。
「おまえが今日、何を買い食いしたとかはどうでもいい!だから、」
「私が、いや、『橘丸』が沈んでないか、見てくれって言ってるんだ!」
それからたっぷり四半時は経った頃、ようよう開かれた扉から出てきたのは、小学生、ありったけ上に見積もっても中学1年生、それも小さめの、といったくらいの少女だった。
「全くさるのやつ…!5分で済むところをぐだぐだと…!」
なにやら頭にきているようで、舗装の波打つ路面を、力任せに、げしげしと蹴っている。
「私が偶然、山ほどテレカを持っていなかったら、どうなっていたと思っているんだ…!」
少女は…貨客船『橘丸』の船霊、橘しとらは、腹立たしげにつぶやいた。
***
ことの発端は、2時間ほど前まで遡る。
定刻通り三宅島を出港し、いつものように、浦賀水道を過ぎたあたりで日没を迎えた。そこまではハッキリと覚えている。
…気が付いたら、来たことも見たこともない、山の中にいた。
そんな馬鹿な、と言われるのは分かっている。私は『船霊』だ、船から遠く離れることは
できない。離れ過ぎれば船は沈むし、私も消えていなくなる。…例外がいないわけではない
けれど、私は例外ではない。
当然、焦った。私が消えるのはともかく、航行中の大型客船が、東京湾のど真ん中で沈んだと
なったら、もう、大惨事だから。
ポケットの中をいくら探っても、いつも持たされているスマートフォンが無くて。仕方が
ないので、道をひたすら下って…そう、ちゃんと舗装された道路の、坂道の途中だったから、
とりあえず下って、街灯りが遠くに見えたあたりで、この電話ボックスを見付けたのだった。
竹芝に電話を掛けたとき、出たのがあろうことか、さる…さるびあ丸で。その、馬鹿みたいに
のんきな声を聞いて、ちょっと涙してしまったのは気のせいだ、絶対に気のせいだ。船に「何か」は起きているに違いないって、覚悟してたのに、あいつはぐだぐだといつも通りに話すばっかりで、ようよう聞き出したのは、「橘丸は普通にそこにいるけど?」の一言で。もう、崩れ落ちる
かと思った。
何が起こっているんだろう。どうしてこんなところにいるんだろう。
いずれにしても、早く、竹芝に。そして、船に、戻らなくては。
ボックスに掲示された住所表記を見やる。どうやらここは、東伊豆町…静岡県の、伊豆半島の
南東部…らしかった。
「ヒッチハイクでもしてみるか…?いや、捕まえるまでが大変だな…」
中途半端に「見える」相手が警察だった日には、とんでもなく面倒なことになるだろう。
「伊豆半島の南…伊豆…下田!そうだ、下田まで行ければ…!」
それを思いついたのは、ずいぶんと考え込んでからだった。
下田からは、カーフェリーが伊豆諸島に出ている。ちょっと遠回りになるけれど、島経由で。
竹芝に、帰れる。
不幸中の幸いで、下田は隣の市だ。遠くても10㎞…は歩かなくてすむ、気がする。街まで出て、
線路伝いに歩けば、必ず出れる。
「下田だ!下田に出よう!」
「…こんな夜に、下田まで、あんた独りで?」
振り返った。
年配の男性が、道路を挟んで向かいの家の門から、顔を出していた。
***
「さっきから、外がずいぶん騒がしいなと思ってね、見てみたら、」
「女の子が独り、困っているようだからさ」
「なにごとかな、と思ったんだが」
少し、安心したのは、見るからに穏やかな、好々爺、といった感じの男性だったからだ。そして
少なくとも、口調の端々からは、私を心配している、という感情が伺えた。なにより、決定的
だったのは、
「お嬢さん、『船霊』だろ?」
という一言だ。つまり、彼は、「見える」人間で、なおかつ、船舶の関係者だということだ。
…これは、事情を話してもよいかもしれない。
勧められるままに、家に上がらせてもらった。男性は、最初に茶を出してきた後、「それとも、
酒の方がいいんかいな?」と訊いてきた。
「酒はいける口です。」
「では、遠慮なく。」
聞き出したところによると、彼は元外航船員で、タンカーに乗っていたらしい。この家は父の代
からある家だが、息子一家と奥さんは下田に住んでいて、彼だけたまに、手入れのために通って
きているそうだ。つまり私が男性と出会ったのは、ずいぶんと運がいいということなのだろう。
…発端が発端なので、全然素直に喜べないのだが。
どうせ乗りかかった船だ、と腹を括って全て打ち明けると、彼は、朝になったら下田まで送って
いこう、いや、どうせなら竹芝まで送ろう、と言った。
「これも縁。縁だなあ。」
しきりに「縁」と言いながら、鴨居に掛けた古写真を見上げるものだから、私は調子に乗って、「何が縁なんです?」と、酒を注ぎこみながら訊いた。
「親父がね、先代の『橘丸』に乗ったことがあって」
ギクリ、とした。それは、「私は」、たしかにその「橘丸」でもあった。
でも。その船名にまつわる「不祥事」は。「汚点」は。
ああ、どうしよう。その後にくる言葉が怖い。
男性は、酒のなみなみ入った猪口を一気に飲み干すと、古写真を指差した。
「親父はね、先代の『橘丸』で、ウェーク島から還ってきたんだ。」
脳裏に、日本の海とは違う、明るい青い海が広がった。
「親父も『見える』人間だったんだけど、ずいぶんと、それで助けられたようでね。特に復員船
は、別嬪だったって、しきりに言うんだ」
…正直、覚えていない。あの頃の私は、その直前の「事件」で、頭がいっぱいになっていたから。その後も、何人も何人も運んだから。中には、「見える」人もいたのだろうけれど。別嬪…か。
だいぶ、どこもかしこも、酷い格好だったと思うけど。
1つのことに、固執していたのは、私の方だったのかもしれない。
彼は、その後、何杯か、「縁だなあ」と言いながら飲んで、そのまま寝てしまった。私は瓶の残りを湯呑に注ぐと、潮の香りを感じながら、それを空けた。
***
雨戸の隙間から、光が射し込んでいるのに気が付いた。もうすっかり、日は昇って、真昼間と
言っていい時間になっていた。戸をそろそろと開けると、きちんと手入れされた庭の向こうに、
海が見えた。
強い香りが漂ってきて、見上げると、五弁の白い花が点々と、開いているのが見えた。
「タチバナ…」
「そう、橘の花。…自生地の北限は沼津というから、ここもちょいと、植えるには寒いと思う
んだが。」
目をこすりながら、家主がこちらへ向かって歩いてきた。
「親父がね、俺はあの船で還ってきたんだからって。あの船が、『橘丸』が迎えにきて、俺は
還れたんだからって。植えたんだ。」
花咲く橘の向こうに、皐月の青い空が見える。彼方に、太平洋が広がっている。海はどこまでも
どこまでも広がっていて、きっと、あの日のあの島まで繋がっていて。人の想いも、私の想いも、全て丸めて飲み込んで穏やかに、今日もさざなみを立てている。
(終)