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​◎ゆずりは
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『北海道オールジャンル擬人化アンソロジー』寄稿作品

あの頃の彼らは、本当に、輝いて見えたのに。

 

一九七一年、秋。

揃いの赤い外套をまとった電気機関車の兄弟が、青森駅の構内を歩いていた。

「緊張しているの?」

と、兄が訊いた。

「秋田の港にも、船は居るはずだけど。」

「だって。彼らは連絡船じゃなかったもの。」

弟は、早足で歩く兄の歩幅に合わせて、小走りになりながら言った。

「鉄道連絡船のひとに会うなんて、初めてで…」

「たいした違いはないよ。彼らも、僕らも、人や貨物を運ぶのは同じだし。」

長い長い連絡船通路を抜けると、ちょうど、桟橋には白とブルーグレイに塗り分けられた船が停泊していた。

「今居るのは津軽丸か。まあ、ちょうどいいな。」

こほん、と一つ咳ばらいをして、ED75は船に向かって、

「津軽丸!」

と呼びかけた。

「ほい?」

明るい声と共に、デッキから船体と同じ、ブルーグレイの頭が顔を出した。

「どうかした?ED75。東北本線で事故でもあった?」

「いや、運行は支障なしだけど。こないだ言った、弟(ED75形700番台)を連れてきた。」

とたんに頭は引っ込んで、ドタバタする音が暫し聞こえていたかと思うと、乗り口に長身の女性が現れた。

「君が噂の弟さんか!はじめまして!」

青函連絡船の津軽丸は、手を差し出してにっこり微笑んだ。

 

「そうか、君が奥羽と羽越の貨物の担当なのだね。製造年はいつ?当年?…まだ冬を越して

 いないのか。あすこは雪がものすごく降るから、列車が止まりがちになるのだよね」

津軽丸は手早くお茶を入れて、ふたりに差し出した。

「ED75、君の担当は東北本線と常磐線周りだったっけ」

「僕は三年前から青森に乗り入れているはずなんだが。毎日顔を合わせていれば覚えていると

 思っていたよ。」

ED75は湯呑を手に取ると、少し手の中で弄んだ。

「連絡船の寿命は列車の寿命より短いんだ。君たちの一日と過ぎる早さが違うんだよ。」

津軽丸はそしらぬ顔で、茶をすすった。

「君は僕と同い年のはずだろう。もうボケたのか。」

「青函連絡船の耐用年数を知っているかい?十八年だよ。私は就航から八年経っている。

 君もよく知っている先輩方は延命工事を重ねて二十数年も就航したけれど、まあ安全と

 効率を考えれば、そんなものだろうな。」

渋い顔のED75に笑顔を向けたあと、津軽丸は700番台の方を見やった。

「君は私たちがいなくなった後もうんと走るんだろうな」

「この目にはどんな綺麗なものが映るんだろう」

「願わくは、暗いものより、明るいものが多く見れますように。」

(…なんというか、独特なひとだな)

これまで会ってきた列車とも、船たちとも、異なる空気だ。

「あんまり弟を脅かさないでほしいんだけど。」

ED75は溜め息を吐いて、湯のみを机に置いた。

「この子はこれから走るんだから。」

「はは、海の上で長く走っているとどうもね。色々なものを見るものだから。」

津軽丸は手をひらひらとさせると、時計を見上げて、

「そろそろ羊蹄が来る時間だ」

と言った。

「もう着岸した頃かな?せっかくだから、会っていくといいよ」

 

急に潮の香りが濃くなった、と思うと、後ろから肩を掴まれて、700番台は固まった。

明るい臙脂色の髪が微かに頬に触れた。

「これが75の弟?可愛いじゃない!」

恐る恐る見上げると、濃い臙脂色の目が猫のように笑った。

「…羊蹄。今は客人、これからは仕事の相手だぞ。」

津軽丸が窘めた。

「手を放しなさい。」

「はあい。ごめんなさいね、あまりにも可愛かったものだから。函館にお持ち帰りしたい

 くらい。」

「おい」

隣の兄が、血相を変えて自分の腕を掴んできた。

「冗談よ、それに函館はそんなに怖い所じゃないわ。あなたは知っているでしょう?」

「そういう問題じゃない」

ED75の手が少し震えているのが、服越しに分かった。

「…兄さん。大丈夫だって。」

「でも」

「僕はまだ投入されたばかりだよ?落ち着いてってば。」

ようよう手を放したED75と、腕をさする700番台の様子を羊蹄丸は実に興味深そうに見ていた。

「ねえ津軽、」

「だめです。」

「…姉さん、」

「だめです。ひとをからかうものじゃありません。」

ぴしゃりと撥ねつけると、津軽丸は羊蹄丸の頭に拳を落とした。

「やりすぎだ、この跳ね返りが。…すまないね、妹が迷惑を掛けた。キツく叱っておくよ。」

「…しばらくは覚えておく」

「許してくれとも忘れてくれとも言わないさ。このぽんこつのことは好きなだけ恨むといい。」

津軽丸はちょっと溜め息を吐くと、羊蹄丸の肩を背後からがっつり掴んで隣の部屋に引っ張っていった。

 

***

 

それから数日。秋田から青森に貨物を牽引してきた700番台が、奥羽本線のホームで一息吐いていると、背後から明るい声が名前を呼んできた。

「700番台!」

青函連絡船の羊蹄丸はいかにも楽しそうな足取りで、700番台のもとまでやって来ると、笑って少年を見下ろした。

「ねえ、今日は75、居ないの?」

「兄は、九州の担当機を見に行きました。」

700番台は周囲を見やると、じりじりと彼女から離れた。

「取って食べたりしないわよ。函館にさらっていったりもしないわ。」

「それならいいんですけれど、」

ベンチの端まできてから、700番台は羊蹄丸を見上げた。

「僕がいなくなると、兄が悲しむので。」

「…あなたは75がいなくても困らないんじゃなくて?」

「…どうでしょう、」

700番台は困った顔をした。

「考えたこともなかったです。」

沈黙が流れた。

「そう。…お菓子あげるわ。75には内緒ね。」

四番ホームのベンチに並んで腰掛けて、菓子をつまみながら、700番台と羊蹄丸はとりとめのない話をした。

「ほんとに、700番台は可愛いわね。あの75の弟とは思えないくらい。まあ、外見はそっくりだけど。」

「兄は可愛くないのですか?」

700番台は羊蹄丸を見上げた。

「可愛くはないわね!」

笑いながら、赤い連絡船は首を振った。

「75が青森まで乗り入れるようになってもう三年。」

「優秀だけれど何を考えているのかてんで分からない機関車が、新しく入った弟に狂ったと

 いうからみんな気になっていたのよ」

「…噂になっていたということですか。」

兄の顔を思いながら、700番台は曖昧な表情を浮かべた。

「まあ、そうね。どんな傾国かと思っていたけれど、」

羊蹄丸は人差し指で700番台の額を弾いた。

「あなたなら仕方ないかもね。」

「……」

「素直で真面目な可愛い子は誰だって好きだってことよ。」

まだ菓子の入っている袋を700番台に押し付けて、羊蹄丸は立ち上がった。並ぶホームに列車が入線してきて、急にあたりが騒がしくなり始めた。

「入れ替え作業が終わったころかしら。行かなくちゃ」

「また会いましょう。」

菓子袋を抱えたまま、700番台は奥の階段を登っていく彼女を無言で見送った。…翌日、函館銘菓の袋を見付けて全てを察したED75が、連絡船控室に文句を言いに来るのであるが、それはまた別の物語である。

 

***

 

「やあED75。今年も一年、お疲れさま。」

黄色い髪の連絡船は、髪に付いた雪花を払いながら、電気機関車に声を掛けた。

「お互い、夜遅くまで大変だねえ。」

「全くだ、…まあ、年末だから貨物の仕事は減ったけど。」

ED75はため息をついた。

「忘年会は行けない感じ?」

「夜行の仕事があるから僕は無理だ。…弟は行かせたんだけど、心配で。」

「こちらのひとたちは飲むからねえ」

八甲田丸はのんびりとした調子で目を細めた。

「…いや、その心配はしていない。」

「さいですか。秋田っこなだけあるね。…うちからは羊蹄と日高が行ってるけど…大丈夫

 かなあ…。」

 

「……なんでおまえそんな飲めるの…?」

徳利から日本酒を注ぎながら、日高丸がおそるおそる聞いた。隣にはちんまりと赤い髪の機関車が座っている。

「そんなに飲んだつもりはありませんけれど。だって、」

手で奥の席を指す。DE10が一升瓶から湯呑に勢いよく中身を注いでいるところだった。

「DE10さんはもっと飲んでいるでしょう…?」

「そらディーゼル機関車は強いよ。でもおまえ電機だろ?」

「…どうなんでしょう。秋田ではいつもこんな感じなので」

700番台は猪口に口を付けると、一息に飲み干した。

「連絡船の皆さんも主機はディーゼルでしたよね?」

「そうなんだけどね…なんだろ…波とアルコールの相性が悪いのかな…」

俺は割と回ってるよ、と付け加えて、日高丸は目で羊蹄丸を探した。先ほどEF81に絡んでいるところは目撃したのだが。…これは函館に連れて帰るのが一仕事かもしれない。

「はろー」

顔をほんのり赤く染めた羊蹄丸がふらりと背後に現れたので、二人は勢いよく振り返った。

羊蹄丸はかがむと、わしゃわしゃ700番台の頭を撫で回した。

「ちゃんこい、めんこい」

「やめれ羊蹄。700番台が固まってるだろ」

日高丸はため息を吐きながら、羊蹄丸の腕を掴んだ。

「すまん700番台。大丈夫か?」

「…なんでもねぁ…」

700番台は猪口の中身をだばだばこぼしながら呟いた。

「大丈夫じゃないねこれ」

「嫌だった?」

羊蹄丸は急にちょっと不安そうな顔をして言った。

「ちょっと驚きました…」

「完全に事案だから羊蹄。」

日高丸は空のジョッキになみなみ水を注ぐと、羊蹄丸の手に押し付けた。

「これ全部飲み干すまで700番台に話しかけるの禁止。」

「……」

羊蹄丸は無言で水を飲み始めた。

「ところで日高丸さん、」

「?何か?」

「杯が空じゃありません?」

700番台は徳利を持ち上げると、ちょっと振った。

「まだまだ夜は長いですよ?」

「末恐ろしいヤツだな…」

日高丸は猪口を差し出しながら、渡島丸と津軽丸になんと申し開きをしようか、考え始めた。

 

***

 

海峡を越えて青森に着岸すると、駅には赤い機関車が停まっていて、青い客車も停まっていて、業務の申し送りをし、時には駄弁り、時には愚痴を言い合い、時には一緒に菓子をつまんだり、酒を呑むこともあったりして。

こんな毎日が、ずっと続くと思っていた、のに。

 

***

 

最近700番台を見かけない。様々な言文は飛んでいるが、ED75本人に問いただした者はいなかった。車両自体の運用は彼が請け負っているようで、これまで以上に青森には顔を出しているが、その落ち込んだ表情を見ると、誰も深く突っ込んで訊くことができないのだった。

ある夜、函館の第二岸壁に着岸した羊蹄丸は、待合室から駅本屋までの長い通路を一人、歩いていた。通路に並ぶガラス窓は、いずれも白く曇っている。

前方から、聞いた覚えのある足音が近づいてくるのが分かった。

(嘘。そんな…まさか、)

この通路は線路に沿って緩やかに曲がっている。だから少し先より向こうが見通せない。

自然、進みが速くなった。

相手は羊蹄丸に気が付いたらしい。途中で足を止めて、待っているようだった。

(…やっぱり、そうだったんだわ)

「こんばんは。お久し振りです。」

ED79形になったED75形700番台は、寂しそうに笑った。

 

彼は700番台であったときよりもだいぶ背が高くなって、伸びた手足を持て余しているように見えた。

「75が大反対したって噂で訊いたけど」

羊蹄丸は様子を伺いながら、そっと口火を切った。

「そうですね、兄とは大喧嘩をしました、」

ED79は目をすがめて、首をそっと撫でた。

「あんなに兄さんが怒ったのは初めてだったな。」

「海峡の連絡隧道を走る機関車になるのね。」

ED79は頷いた。

「ずっと工事はしていたけども…自分がそこを走ることになるなんて。なんだか嘘みたい

 です。」

「もう秋田に戻ることはないんだなあというのも。」

「これでよかったの?」

羊蹄丸は静かに訊いた。

「昔、75と離れるなんて考えたこともないなんて、言っていたじゃない。」

「そういえば、そんなこともありました、」

赤い機関車は遠い目をして、海の方を見つめた。

「考えて考えて考えて、…考えたんですけれど、やっぱり、兄さんと僕は離れた方がいい

 のかなって。」

「たぶん僕は、兄さんをだめにしてしまうから。」

地面を少し蹴って…ED79は顔を上げた。

「なんでこうなってしまったのか、分からないけれど…、でも僕はここに来ることを選び

 ました。」

「今は色々叩き込まれています。たぶんそのうち、皆さんにもお話を伺うことになると

 思います。」

「よろしくお願いします。」

深々と下げた頭に、どこか、今までになかったような壁を感じて。羊蹄丸は一歩、後ずさった。

ED79はそれを見て…少し、悲しそうな顔をした。

(ああ)

(マズいことをした)

これからもよろしくと言えればよかったのに、なぜだか、頭が回らなかった。

たまらずに、その場を足早に去った。

去ったというか、つまり。

逃げたのだ。

心の底には罪悪感だけが残った。

罪悪感を上塗りするように、ED79を避けた。

周囲の連絡船たちは戸惑ったようだが、何も言わなかった。

 

***

 

「羊蹄丸」

年が明けて、ちょうど二月が過ぎ、引退がいよいよ目前となったある日。

疎遠になっていたED79から、声を掛けられた。

「少し…お話ができませんか」

出発時刻までは、うんと間がある。

駆け込み需要で人が多くなっているとはいえ、とりたてて、今日は騒動が起きているわけではない。

話はいくらでも聞ける。

そもそも。

切羽詰まったような薄蒼い顔で、頼まれては何も言えまい。

 

連絡船控室に連れて行って、椅子に座らせた。茶の入った湯呑を目の前に置いて、何事か、

と尋ねた。

「あの」

俯いたまま、幼げの残る青年は言った。

「あと数日で…連絡船は引退して、僕が海峡を繋ぐことになるでしょう、」

「そのことについて、皆さんは…青函連絡船の皆さんは、どう思っているのですか…」

「皆さんは大層僕に優しくして下さるけれども、なんだか、申し訳なくて…」

「僕が、…僕が来たから引退しなくてはいけないような、ものなのに」

組んだ手が少し震えた。

「海峡もはまなすも、色々言ってくるけども、…僕はいま、走っている連絡船に訊き

 たくて。」

「それで、…声を掛けたわけです。」

「そうねえ、」

羊蹄丸は虚空を眺めて、息を吐いた。

「先代の羊蹄丸はそれはもう細かく、ほんとにコマゴマとものを言ってくるひとで、

 あたしも就航前には色々叩き込まれたけれど、いざ仕事が始まったときは一つしか

 言わなかった。」

「おまえは沈むな、おまえたちは絶対に沈んでくれるな、私はもうひとが死ぬのは見たくない

 んだ、ふねにしずんでほしくないんだ。…って。」

「だから、…そうね、これでよかった、なんて言う気はないけれど。必然ではある…ので

 しょうね、きっと。」

まだ寒い三月の東の空には、下弦の月が掛かっている。

「鉄道連絡船は鉄道が伸びればなくなるのがさだめだもの。あなたを恨むことはないわ。」

羊蹄丸は笑ってあちらを見た。

「あのトンネル、あたしが就航する二年前に着工したのよ。…ずいぶんと長い時間が経って

 いたのね。」

 

 

***

 

三月十三日の津軽海峡は、いつもと変わらず青灰色に広がっていて、雲の隙間からところどころ、日の光がこぼれていた。波は至極穏やかで、爽やかな天気とは言えないが、これはこれでこの海らしい日和なのではないか、と羊蹄丸は桟橋から外を見つめながら思った。

朝一番の渡海列車である海峡一号は、函館駅で華々しく迎えられたようだ。ED79は青函両岸を忙しく行き来しているようで、青森側でも、函館側でも姿を見かけた。雑踏の合間から見えたその横顔は、きれいさっぱり不安を振り切ったような笑顔だった。

(また、函館で会うこともあるでしょう。…まだ、ここを去るときではないもの。きっと、美味しいお酒が呑めるわ。)

少しだけ寂しいけれど。今はただ、君の前途を祝おう。

「羊蹄!」

「…檜山。もう、出発の時間?」

「んだ。おまえより二十五分先行の臨時便。…おまえが上り最終なんだな。」

「そうね。八十年続いた青函連絡船も、これでおしまい。」

「俺はまだまだこの海で走っていたかったなあ。走るだけで言うならあと数年は走れたもの

 な。」

檜山丸はちょっと口先を尖らせた。

「この海で走るために生まれたんだし。」

「若人が立つのを見届けたら、先達は去るのみ、よ。」

肩を叩いてやる。

「まあ分かっちゃいるんだが。79は後を任せられる、しっかりしたヤツだから。心配は

 ないな。」

一度だけ大きく伸びをして、檜山丸は手を振って船の方へ向かっっていった。

 

ちょっと足を返して、船体を仰ぎ見た。錆が浮いて、塗装は褪せてきているけれど、それでもずいぶんと大したものだと思った。二十三年近く、よく走ったと思った。

 

この海が好きだ。

曇天も、快晴も、闇夜も。鏡のように滑らかな穏やかな航海も、荒く風吹く日も、叩き付けるような雪嵐も。

 

色々なことがあった。沢山の人を乗せた。いつもいつでも一緒の乗組員のおかげで、ここまで来た。

 

いつか、…いつか、この日の記憶は薄れて、自分もとうに消え去って、出来事は書物に記された、文字の羅列になってしまうのだろうけれど。誰かがそれを見付けて、この潮の香りを想ってくれるといい。

 

銅鑼が鳴った。

もうすぐ、出港だ。

…行こう。

​(了)

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