
◎鉄道奇譚

真冬の夜の御伽噺
もう、20数年も前のことだ。
高校3年生だった私は、実家のある青森から受験会場の札幌まで行くために、急行はまなすに乗っていた。両親とは折り合いが悪く、実家の経済状況も相まって、家を出るためになんと
してでも大学に合格する必要があった。私には不相応なレベルの高い大学だったので、友人がお守りを買ってきてくれた。青森駅まで行く電車の中で、また急行に乗った後も、私はずっとそれを握り締めていた。
函館に着いたのは深夜を回ったころで、一睡もできなかった私は、足を伸ばそうと、駅に降りることを決めた。全く集中できない頭で列車の付け替え作業を眺め、ホームを往復して戻ってきた時、お守りが無くなっているのに気が付いたのだった。
慌てて探し回っても、影も形も見当たらなくて、列車の出発時刻10分前になっていて、
ああもう駄目なんだと思った時、声を掛けられた。
「どうした?」
声の主は、私と同じ年くらいの少女だった。とにかく焦っていた私は、「お守りを失くして」とか、「友達がくれたやつで」とか、要領を得ない答えを口走ったのだと思う。彼女はそれを辛抱強く聞いてくれて、最後に肩をぽんと叩いてこう言った。
「分かった。少し待っていろ。探してくるから。」
それからほんの少しも待たないうちに、彼女は本当に友人のくれたお守りを持って現れた。
「大変だったな、もう失くすんじゃないぞ。」
と、笑って。そして、それを渡してきたあと、じっと私を見上げてきて、付け加えた。
「大丈夫。お前ならできるよ。」
そのあと、「ひとを待たせている。」と言って、どこかに行ってしまった。
私はその後ろ姿に向かって、ありがとうと礼を言うことしかできなかった。
その急行はまなすも、あと数日で廃止になるという。あれから何回か利用したけれども、
あの少女と再び会うことは、ついになかった。今日、私は思い出の列車に別れを告げるため、函館に来たのである。
零時を回って、雪が舞い始めた。列車到着の放送が流れて、私は慌ててカメラを構えた。
円弧を描くホームの奥から、赤い機関車が滑り込んできた。
ふいに、雑踏の中に少女を見かけたような気がして、振り返った。人が切れた一瞬の隙間の中に、確かに彼女は笑って立っていた。
「頑張ったな。」
そんな声が、聞こえたような気がした。
それは、雪が見せた幻だったのだろうか。-いや、なんだっていい。
そう、全ては真冬の夜の御伽噺だ。
マヨイガ
俺は全く覚えていないのだけれども、幼い日、祖父母の家へ帰省する際に、秋田駅の構内で迷子になったことがあるのだという。東京駅などと比較してしまえば単純な構造のあの駅で、どうやったら迷えるのか不思議でたまらないけれども、母親に言わせてみれば「すごく大変だった」らしい。当時の俺は電車がずいぶん好きだったので、ふらふらと新潟や青森行きの特急に乗り込んだのではないかと、気が気ではなかったそうだ。
とはいえ、1時間足らずで見つかった。なぜか、改札口のすぐそばで。保護された俺は、「赤い髪のお兄さんが道を教えてくれた」などと訳の分からないことを話し、一同を混乱させた。疲れた従妹が「なまはげにでも助けてもらったんじゃない」と呟いたので、俺は「なまはげに助けられた」ことになった。釈然としないが、世の中そういうことにしておいた方がいいことは山ほどある。ともかく、俺はすぐにその事件を忘れ、電車からもいったん離れてすくすくと成長し、一人旅をするようになって今度は鉄道にハマり直した。
数年ぶりに秋田駅に降り立ったのは、空き家になった祖父母の家の手入れをするためだ。せっかくだからと在来線を使って10時間、到着したのは終電で、辺りはすっかり闇の中。
階段を上り、連絡通路を通って改札口へと急いだ。
…はずだったのだが。
こんなに、通路は長かっただろうか。
よくよく考えると、県の中央駅で、営業時間内にも関わらずこんなに薄暗いのはおかしい。
幾人もが電車から降りて行ったはずなのに、周りに人がいないのも、それどころか駅員の姿
すら見えないのも。
自然、早足になった。
腹の底から、得体のしれない不安がよじ登ってきて、視界を歪ませた。
出口に着いたときは、心底ほっとした。
切符を取り出して、改札機に滑り込ませる。
誰もいない空間に、機械のエラー音が響いた。
…心が折れた俺は、誰かいることを祈りながら、窓口に顔を突っ込んだ。
事務室の中には、何人かひとがいて、こちらを見て心底驚いたような表情を浮かべていた。
「お兄さん、もしかしてさっきの電車で着いたお客さん?」
一番手前にいた男性が、目をぱちくりさせながら言った。
「参ったなあ、たまにこういうことがあるんだよなあ。」
そして、奥にいた男女を呼んだ。
「どうするよ?」
「どうするもこうするもないよ、一晩泊まっていった方がいい。
下手に迷うと、辿り着けないから。」
とても、不穏な空気である。薄々感じてはいたが、ここはどうやら世間一般でいう秋田駅ではないらしい。目の前のひとたちは一体何者なのだ。そして俺は無事帰りつけるのか。
「大丈夫ですよ。明日には元に戻れますから。」
お姉さんの言葉が救いである。よく分からないうちに俺は椅子に座らされ、目の前には酒瓶が並べられていた。「まあ困ったときは飲むに限る」という一言と共に、酒が杯に注がれる。
「深くは考えない方がいいよ、それが一番だ。」
目の前の青年が、徳利を振って、からからと笑った。
「それにしても大きくなったね、まったくあのときの坊主が酒を飲めるようになるなんて。」
思わず、見返した。目の覚めるような、赤い髪。なまはげに、助けられた…
青年は、いたずらっぽそうに目を細めて、楽しそうに、また笑った。
気が付くと、秋田駅の改札口の前に立っていた。
始発電車の利用客が、怪訝な視線を送ってくるので、俺は慌てて脇にどいた。
…一体、なんだったというのだろう。
ふと違和感を覚えて、ポケットを探ってみると、無地の白い猪口が1つ、転がり出てきた。
どこからともなく笑いがこみ上げてきた。俺はそれをごまかすために、切符を取り出すと、
足早に改札機に歩み寄って、滑り込ませた。
なにごともなかったかのように扉が開いて、切符が吐き出される。
俺はそれを手に取ると、次の電車に乗り込むために、ホームへと歩き出した。
祖父母の家に着いたら、仏間の掃除をしよう。
そうして今夜は、彼らと一緒に酒を飲もう。
そう考えながら。